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時々、サヨナライツカ…

この本を初めて読んだのはいつだったかな…

初版は平成14年とあるから、今から17年前か。辻仁成さんの小説はとても女性的で、言葉が柔らかく繊細で、胸の奥の奥にチクンと刺さるとそれまで我慢していた様々な感情が一気に呼び起こされ、止めどなく溢れてくる。

ちょっと心に小さな穴が開いて、冷たい風が身体を吹き抜けるような時、心臓の辺りがしくしくと疼いて呼吸が浅くなり、自分の感情をどうにもコントロールできなくなるとき、この心の中のモヤモヤした塊の処理の仕方に四苦八苦するとき、私はサヨナライツカを取り出して読む。

過去の、愛し合った素晴らしく輝いた日々をずっと心の支えにして何十年も生き続ける女性。決して「好き」とか「愛している」という言葉をくれなかった男をずっと想い続けることなんて、本当にできるのだろうか。

物語の中の男は自分の約束された輝く将来のために、何も言葉を告げずに彼女の元を去るが、やはり何十年もその後悔の中で生きていく。そして最後に彼女の命の灯火が尽きるときになって初めて、やっと「愛している」と告白し、懺悔する。

過去に生き、過去の輝きだけが今の自分の存在をやっとのことで支えているなんて、私には絶対に考えられないと思った。初めて読んだときは。

あれから何度となく再読するうちに、その時の自分の状態や年齢で少しずつ少しずつ、変化している。

今現在、私は主人公の最期の時の年齢までにはあと10年ほどある。彼女が一番輝いていた頃からすると、20年位は経っているが、現在の私はまだまだ生きる気力も人を愛する気力も多分に持ち合わせているはずだ。

私の人生は2度の結婚の前にも後にも、その最中にも、幾人かの男がいた。その時その時、真剣に向き合い、愛し愛されてきた。と、思う。だが、過ぎてしまえばそれはもう「過去」でしかなくて、思い出を取り出して愛しく眺めたり涙したりはしない。その理由はその愛にしっかりと「ピリオド」が打たれているからだ。喧嘩別れや相手のことがイヤになって切り捨てたような別れではなく、「今までありがとう、さようなら」と相手の顔を見て言える終わり方。だからその後はクルリと反対方向を向いて、顔をあげて前に向かって歩いていける。そういう別れ方だから。

しかし恋愛には色々なケースがあることを、今になって知ることもある。「好きだ」とか「愛している」という言葉をもらっていないと、その始まりも関係性も終わりも、全てがあやふやのままだという恋愛。

何をもって心に「ピリオド」を打つか。もらえていない言葉を心の中で幾度も繰り返し、どうやって自分を納得させればよいかを考える。落としどころをどうやって見つけるか。

長く生きてきたのだから、それくらい簡単だろうと自分に言い聞かせるが、今まで経験していないことは年を取っていようがいまいが関係ない。でもそのストレスに耐えうる体力と気力は、もう持ち合わせていないのだと悲しくなるくらい自覚する。

簡単な方法は、「何事もなかったかのように演じて」いるうちに、日毎に風邪が治るように、少しずつ少しずつ回復するのを待つこと。自分を騙すことになるのだろうが、それでもそうやっているうちにいつしか平気になると信じる。

他に楽しいことや好きなことを探して自分の機嫌をとりながら、落としどころを探してゆこう。

サヨナライツカの中に出てくる「人生の最後に、愛したことを思い出す?それとも愛されたことを思い出す?」という問いかけ。

私はどちらだろう…。

今は愛したことしか思い出せないな。ちょっと悲しいけれど。いつか愛されたことを思い出す恋が、またできるといいな。

次にサヨナライツカを読む時には、どんな感情をもっているだろう。それはその時の楽しみとしてとっておこう。


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