見出し画像

残された者になるのを前提に猫との日々を楽しんでいる

猫の日である。

昨年末にいただいた質問と、自分の回答を読み返しては、考えている。

<質問>
去年愛猫を亡くし、娘のたっての希望で保護猫を迎えました。今の猫もずっと居てくれるわけではないし、逝ってしまう頃は娘も家にいないでしょうし、乗り越えられる気がしません。乗り越えていくには時間しかないでしょうか?
<回答>
僕は「猫との時間は『幸せの前借り』で、借りていた分は看取ることでのみ返済できる」と考えることにしています。時間のおかげなのかはわからないけど、ちゃんと悲しめば、ちゃんと乗り越えられると思っています。

回答の前半については、特に引っかかりはない。
「猫との時間は『幸せの前借り』だ」と考えている。考えているというか考えることにしている。そう考えないと、やってられない。

問題は後半だ。
本当にちゃんと悲しめば、ちゃんと乗り越えられるのか?
偉そうに答えているけれど、そもそも自分はこれまでの猫の死を乗り越えてきているのか? 乗り越えるって、どういうことだ?

何年も一緒に暮らした、大好きだった相手が死んでしまうのだ。そんなの辛くないわけがないよ。

平静を取り戻したように見えるのは、「衝撃的な出来事が起こった」というイレギュラーな状態から「常に悲しみがある」という状態に移行したに過ぎない。

それは「癒えた」とか「慣れた」とか「受け入れた」とか「乗り越えた」とかでは全然なくて、ただ「沈殿した」だけなのだ。
沈殿した悲しみには、意識的にも無意識的にも容易にアクセスできてしまって、ふとした拍子に顔を出す。
そうなるともう再び沈殿するまで、ただただやり過ごすしかない。

そういう、そういう確かに存在する吐くような悲しみに、できるだけ触れないように日々気をつけている。
「コントロールできるようになること」が、つまり「乗り越えた(ように見える)」ということだと思っている。
みんなそんなものだと思っている。

そして、この状態には、たぶん終わりがない。
時間は意外と何も解決してくれない。
でも、だからこそ、時間が解決してくれたように見えることは全部「時間をかけて、自分でどうにかしてきたことだ」と思っている。

それは、ねぎらっていい。みんな、自分をねぎらっていい。

「看取ることを前提に飼う」
「猫との死別は、耐えがたく辛い」
「時間は、何もしてくれない」

こんなきつい現実を踏まえてもなお、猫との暮らしは笑っちゃうほどおもしろい。

猫は、すごい。

そんなそんな。