高度経済成長期の中で、都会へ出て行った青年たちはどこへ消えた!?『タモリと戦後ニッポン』

 ここ数日、付き合いや体調を崩していてパソコンに向かうことができませんでした。
 月曜日に、『007 スペクター』を観たので後ほど書きます。

 今回の記事は、書評です。

 約32年間、日本のお昼休みに君臨した『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)が放送終了したのは昨年の春先のこと。最終回では、番組が“生放送バラエティー番組放送回数最多記録”に、タモリは“生放送バラエティー番組 単独司会最多記録”にそれぞれギネスに認定された。

 しかし、タモリがいったいどんな人物なのか?という点について、我々は深く知らない。

 サブカル方面で活躍するフリーライター・近藤正高(39)氏による『タモリと戦後ニッポン』(講談社現代新書)は、そんなタモリの半生と、その時代を膨大な資料と関係者の証言で描き出す一冊だ。

 タモリは終戦のちょうど1週間後の1945年8月22日に生まれている。家族は、満州国からの引き上げ組で、ありし日のきらびやかな満州国を聞かされて育ったという。上京したてのタモリを居候させた赤塚不二夫も、引き上げ組のその1人であった。

 1966年、タモリは早稲田大学に入学。当時は学生運動の真っ盛りだが、学生運動に関わった痕跡はない。「全共闘世代っていうけど、なんら、影響、受けてないもん。やってたヤツ、知り合いにいないし」

 この時期のタモリは学生運動よりも、うんと多忙な日々を送っていた。すし詰めの夜行列車で全国を行脚するモダンジャズ研究会での巡業だ。そのうち大学に足が向かなくなり、とうとうやめてしまった。しばらくして、「アイツはヤクザになってしまった」と勘違いした家族から福岡に半ば強制的に連れ戻され、タモリが再び東京の地を踏むのは7年後のことだった。

 ホテルの一室でバカ騒ぎしていたジャズ奏者・山下洋輔らのところへ、面識のないタモリがひょいと入ってきたというエピソードは有名だ。えらくタモリを気に入った山下はその様子を東京の仲間たちに話した。いつしか「そんなにすごいヤツなら、東京に呼ぼう」という話になり、お金を出し合って新幹線のチケットを買い与えた。

 かねてから30歳になったらやりたいことやろうと決めていたタモリは、いい機会だと仕事をきっぱりと辞め、東京行きの新幹線に乗った。福岡と東京をつなぐ山陽新幹線が開通したばかりの1975年夏のことだった。

それからのタモリの活躍は周知の通りだ。『いいとも!』放送開始時には、フジテレビ社内では反対の声が多く出たという。ネタがテレビ向きじゃないと長らく深夜帯で活躍していたタモリを、昼のど真ん中の番組に抜擢したからだ。

 本書の中で、近藤氏はタモリが過剰な意味付けを嫌ってきたと語る。“しがらみの多い日本の精神的風土を揶揄するタモリの芸風は、地縁や血縁に縛られた農村を忌避して都会に出てきた人々にも受け入れやすかったのだろう”とあるように、根本には日本の古い習慣や考え方に対する反抗が感じられる。

 タモリは、戦後の高度経済成長期の中で、都会に出て行った現代人そのものなのかもしれない。

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