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余白の存在 ~『ビジネス、メディア、人文知の交差点』~

「脳に汗をかく」という表現をよく目にする。久しく感じていなかったが、下記のUNLEASHさんのイベントに参加して、脳が汗でダラダラになった。

この汗を乾かすだけじゃもったいないので、考えたこと・感じたことを汗の結晶として記そうと思う。

このイベントに関して少し不安を感じていたのも事実。
全く分からなかったら…、場違いだったら…、など不安と楽しみを混ぜながら会場入りした。

イベントの趣旨やゲストの照会があり、トークセッションがついに始まった。そして最初の問い。

昨今メディアに対してわかりやすさが求められていることに対して、お二人はどんな課題意識をもっていらっしゃいますか?

この問いを聞いた瞬間、「あ、今日このイベントに来てよかった」とふいに確信した。
大衆に向けられたメディアにおけるわかりやすさへのアンチテーゼから始まったこのイベントは、「自分」と「他人」を視座する視点が大きなテーマだと感じたからである。

その後の会話においても

KPIが取れすぎるのは危険。真善美が蔑ろにされる
評価よりも評判に重きが置かれるようになってしまっている
自分にとって自然なことで評価されないとしんどくなる

など、簡潔ながらも「私はこう思うけれど、あなたはどうなの?」優しく突きつけてくる発言が多かった。
真善美・評価・自然なこと。どれも聞き慣れた言葉だが、いざ自分の言葉で語ろうとすると詰まってしまう。

私の真善美って?私が良いと思うものって?私にとって自然なことって?

正直、これらを分かりやすく自分の言葉で語れる人はいないと思う。でも。これらの問いを自分で自分に問い続けることから始まるのだ、とも思う。

そうすることで「他人」に毒されがちな視点から、「自分」の色を持つ視点に変わっていくのかもしれない。

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以前、「視点」の話を書いたことがある。(実はここでも最所さんのお名前が…!)

これと併せて思うのは、「自分」の視点に浸りすぎても意味がないかもしれない、ということである。

真善美を確立するのは大切である。周りに流されず、信念にそって行動するのは崇高な行為だとも思う。

しかし、それだけでは「自分」の枠が面白くなくなる危険性があるのではないだろうか。
柔軟性とは少し違う。「自分」がアップデートされない危険性である。

時間は否が応でも流れていく。その中で、アップデートがないと歪みが生まれてしまう気がしてならない。

情報を浴びるこの社会で、「自分」という一貫性を強く持つことが求められていることは確かだろう。
でも、この一貫性の在り方についても意識しないといけないのではないだろうか。

一貫性は単なる”独りよがりの頭でっかち”になる危険性も孕んでいる。

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そこで考えたのが「余白」の存在。

思考の中に、「自分」と「余白」を両立させるのである。

余白がないと、他者の思考や価値観を取り入れることが出来ない。
そして、「自分の思考」で「自分の思考」をアップデートするしかなくなる。

結果、”独りよがりの頭でっかち”の出来上がりである。これじゃあ面白くない。

大切なのは、余白を持ち続けること。

この余白には何が入ってくるかは分からない。小説を読んで感じた感情かもしれないし、他人の価値観かもしれない。突発的な出来事による何かかもしれないし、余白のまま存在するのかもしれない。

余白に何が入ってくるのかは関係ない。余白の中に入ってきたものと「自分」は化学反応を起こして、新たな「自分」となる。

そして、再び余白を意識して、「自分」との化学反応を起こすのである。

こうして「自分」の一貫性を持ちつつも、変化していく。

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「自分」と「他人」を視座する視点が大きなテーマだと感じた、と述べた。言い換えると、自分と他人のバランスなのだろう。

自分を強く持て。人の助言は聞くものだ。他人に流されてはいけない。先人に学べ。

どれも正しくて、どれも間違っている。自分なりにバランスをどうとるか、が唯一解でしかないのかもしれない。

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冒頭に、

簡潔ながらも「私はこう思うけれど、あなたはどうなの?」優しく突きつけてくる発言が多かった

と述べた。これは、最所さん・桂さん・モリさんが余白を持っているからこそなのだろう。

この方たちに惹かれる理由を垣間見た気がする。


さて、自分なりの答えは出たかな…と筆を置こうとしたとき、ふと自分の胸に手を置いてみた。

すると、僕は自分の善悪を振りかざしがちだと気付いた。

「これはこうすべき」「社会はこうあるべき」など、僕の視点・価値観からみたべき論を語ってしまう。賛同を得られないと、共通解を探すのではなく、理解を諦めてしまう。

余白がないのである。頭の中が自分の思考で埋まっているのである。
視点というバランスについて考えながら、自分はバランスをとれていないのである。

「ああ、俺ってまだまだなんだなぁ。」

少しへこんだ。

でも。こう思えていること自体が「余白の存在」を物語っているのではないだろうか。

余白にものは入った。あとは「自分」と化学反応させて、変化をさせるだけである。

そして、また余白を作ろう。


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