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結果を見てるんじゃない、プロセスを見てるんだ

私は決してデンマークを手放しで褒めて、デンマークは幸せの楽園ですって言いたいわけじゃない。それでも、デンマークに住んでみて「これは素直にいいことだな」とか「これは日本にもあった方がいい文化だな」と思ったことがいくつもある。

その中でも特に素晴らしいなと思ったこと。それは「何かを表現した人」に対して全力の褒め言葉を贈ることだ。

例えば、学校では毎朝先生や生徒がひとつのトピックに対してプレゼンするMorning Assemblyという時間がある。

私がデンマークに来たばかりの頃、デンマーク語はおろか英語すらたいして話せず、コミュニケーションの輪になかなか入っていけなかった。みんなとコミュニケーションを取るために、なんとか自分のことを知ってもらわなくちゃという一心で、Morning Assemblyでプレゼンを買って出た。日本とはどういう国で、自分がなぜデンマークに来たのか、何を学びに来たのか。拙い英語でプレゼンした。

プレゼンが終わったあと、彼らは全力の拍手を送ってくれた。

驚いたのはそのあとだ。何人かが私のところに来て、「I love your presentation!!」とか「Saki, I was moved!」とか、褒め言葉や感想をわざわざ言いに来てくれたのだ。しかもそれは1日中、誰かに会うたびに続いた。

これは授業中も多々感じることで、Electric Misicの授業で音楽を作った時、Weavingの授業で作品を作っている時、Live Musicコースの生徒がステージでパフォーマンスする時、とにかく誰かが何かを発表すると「It's really cool, because....」とか「I love it, this and this color is so nice gradation...」とか、彼らはまず本人に直接褒め言葉を贈る。さらに、具体的にどこがよかったのかも説明する。

「なんでみんなこんなに手放しで褒めるんだろう?あれはあんまりよくないなとか思うこともあるよね?とりあえずで、上辺で褒めてるのかな?」

正直言って、私は最初そんな風に思っていた。でも彼らのそんな姿を見ているうちに、はっと気が付いたことがあった。

「彼らは結果に対して褒めてるんじゃない。そこに至るプロセスに拍手を送っているんだ」と。

例えばステージで何かを発表する時。そこに至るまで練習だったり、それを作るための時間が必要だ。みんなの前で発表するのは、失敗するかもしれない。下手だと思われるかもしれない。心の中で笑われるかもしれない。そこには多少なりとも勇気が伴う。ステージに上がる人とそれを見る人。そこには少しの段差だったとしても、まったく違う景色がある。

彼らは(半ば無意識に)そういうプロセスを想像して、そこに勇気が必要なことを理解して、それに対して拍手や褒め言葉を送っているのだ。

とてもシンプルなことなようで、私にとってすっかり抜け落ちていた視点だった。

これは何かの資格を取るための学校ではない、フォルケホイスコーレだからこそなのかもしれない。資格を取るための学校だったり、仕事の場面ではただ手放しで褒めるだけではないと思う。そうだとしても、その結果に至るまでのプロセスを想像して尊重してくれているのといないのとでは大きな違いだろう。そして人生の中で、自分が表現したものに対して周りの人が肯定してくれる経験があること。それはとても自信につながることだし、素晴らしいことだと思う。

そして、このことが一体何を示しているのか?それは、彼らには「想像力がある」ということ。もっと言えば「目に見えないものを見ようする力と、それを理解をしようとする力がある」ということだと思う。

前回のnoteで彼らが「自分たちで遊びを作り出すのがうまい」ということに触れたけど、これも想像力と無関係ではないと思う。褒めることも遊びを作り出すことも1人や2人ではなくほぼ全員がしているということは、間違いなく教育の賜物だろう。(一体どういう教育をしたらこうなれるんだろう?ますます興味が湧く)

学校の友人たちは表現を褒めることだけでなく人種差別のようなこともしないし、困っていそうな人にはさっと手を差し伸べたり、基本的に皆とても親切だ。それも「自分の立場だったら、相手にこうして欲しいだろう」とか「自分がこうされたら傷付くだろう」という想像ができているからこそだと思う。


目に見えないものを見ようとする力が、寛容さにつながる

先日発表された世界幸福度ランキングで、日本が過去最低の順位(156国中58位)だったことが話題になっている。細かい項目を見ると、特に数字が低かったのが「他者への寛容さ」だったそうだ。

「他者への寛容さ」について考えていた時に、Facebookで友人がつぶやいていた投稿に強く共感した。

これは、私たちが「目に見えているもの」や「結果」だけを見て判断して、相手の立場を想像せずにものを言っているということだと思う。それは考えなくてもできるから、とても簡単なストレス解消法だ。「寛容さ」がなくなっているのは、「自分が相手の立場になった時のことを想像できずに責め立てること」から起こっているんじゃないかと思う。

でも私たちが目を向けたり議論しないといけないのは、誰かを責めることではなく「どうしてそれが起こってしまったのか?」ということなんじゃないだろうか。

いじめが起こってしまうのは、日本特有の同調圧力があるからかもしれない。もしくは教育システムがもう機能していないのかもしれない。先生たちの労働時間が長すぎて、生徒をフォローする余裕がないのかもしれない。虐待をする人は、その親から虐待を受けていたのかもしれない。近くに相談ができる人がいなくて思いつめてしまったのかもしれない。何かに依存してしまう人は、他に心の拠り所がなくて依存してしまったのかもしれない。

それはニュースにはなかなか報道されないだろうし、私たちは想像するしかない。そして想像したことや仮説から問いを立てて、どうしたら解決できるのか考えてみること。発信してみること。行動してみること。私たちにできることは誰かを責めることではなく、そういったことだと思う。

これは日常生活でも言えることで、例えば初対面で会った時に印象が良くなかった人がいて、「なんだこの人?感じ悪いなあ」と思ったとする。でも、もしかしたらその人は昨日ものすごく落ち込むようなことがあったのかもしれない。あるいは今日体調が悪いのかもしれない。あるいは何かしらのコミュニケーション障害を持っているのかもしれない。

「目に見えるもの」だけで判断してバッサリ切り捨てるするのではなく、その裏にある、見えないものを見ようとすること。それに対して納得はできなかったとしても、理解をしようとすること。

これは簡単なようで、意外とできていないことかもしれない。

そしてこの「目に見えないものを見ようとする力」と「理解しようとする力」、それが「他者への寛容さ」にもつながっていくのではないだろうか。

もちろん限度はあるだろうし、仕事となればまた話は変わってくると思う。でも、私たちは何事にも完璧を求めすぎてはいないだろうか?自分に厳しくするあまり、人にも厳しくジャッジしていないだろうか?

私はデンマークで過ごしていて、そんなことを問いかけられた気がした。


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ジャンピングハグ!
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Sakiko Masuda

シェアオフィス「Midori.so」コミュニティオーガナイザー。 2019年1月よりデンマークのフォルケホイスコーレへ留学中。

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