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何度も考える、教育のこと。自分のこと。

2019年6月時点、「教育」と呼ばれるものに関わっています。


ここ最近忙しすぎて(言い訳)全然アウトプットできていなかったのですが、ちょっぴり時間ができて書きたい気分になったので今思ってることをつらつらと書き連ねていこうと思います。



今に至るいきさつ。

4月から2つの高校で非常勤講師として働いています。1校では英語科の教員として、1校ではTA(ティーチングアシスタント)として働いています。


そもそも自分は、昔から自分は教師になると思っていました。両親が教員な影響もありましたが学校が大好きで、子供が大好きだったので、それが当然の道だと思っていたし、何の疑問も持っていませんでした。

それが変わってきたのはおそらく高校生ぐらいの時。

友達の話を聞いたり、世の中のことがわかってくるにつれて「あれ?」と思うことが増えていきました。


大人は夜23時まで働くもの。土日両方休みなんてありえない。そう思っていました。だって両親がそうだったから。でもそれは普通じゃなかった。そして両親それぞれが病気で入院した姿を見て、このまま自分は教師になっていいのか、そう思いました。

それと、「学校」というものへの懐疑心が湧いてきました。私が大学生の時、「道徳」が教科化されることが決まりました。道徳の教科化。最初はピンと来ていなかったけれどどんどんおかしいと思うようになりました。調べると現場の教員は大半が反対しているということも出てきました。なら、なぜ教科化は止められないのか。結局日本の教育は上が決めたことに従わないといけないものなのか。教員はあくまで税金からお金をもらっている公務員だから。そんな事実が見えてきました。


だから大学生になってからは、自分は卒業してそのまま教員にはならないと思っていました。

だけど、そんな決意に大きく揺さぶりをかけてきたのが大学4回の時に経験した教育実習でした。詳しくはこちらを読んでください。

たかが3週間。でもその3週間は私にとってとっても大きな出来事でした。

ただただ純粋に「楽しかった」


生徒たちと無駄話して、笑うその時間がただただ自分の喜びに繋がるんだと初めて知りました。生徒一人一人が尊い存在に思えました。実習最後学年150人の前で話をする機会をもらった時、気がつけば「きみたちは何でもできる、何にでもなれる。私は本気でそう思ってる」ということを全力で伝えている自分がました。実習が終わってから、自分のやりたかったことってやっぱりこれだったんだと衝撃を受けました。


だけどその一方でいろんな現実も見て、やはり先生一本に絞る気持ちにはなれず、そうこうしてる間にDxPと出会ったりなんかしちゃって、今現在は非常勤講師もしていますがDxPが主軸の生活を送っています。


最近思う、校則ってなんだろう


その中で最近感じていること。

校則ってなんだろう。


例えば、学校によっては靴下の色が決められていたり、髪の長さが決められていたりします。でもそれに対して私は純粋に「なんでだろう?」と思ってしまいます。靴下の色が赤色だから、髪が肩にかかっているから、なんの問題があるんだろう。そんな風に思ってしまいます。この前も、ある生徒が授業中担任の先生に呼び出しをくらい授業時間残り5分で授業に戻ってきたことがありました。そこでその生徒になんで呼び出しを食らったの?と聞くと「友達の靴箱に自分の靴を入れていたから」との返事。私の頭の中はハテナでいっぱいになりました。「え、そんなこと?」思わず声に出してしまいました(ダメ)。授業が終わってからもなんでそんなことで40分間も説教をする必要があるのか。そこまで縛り付けるのは何故なんだろうという疑問が頭を離れませんでした。でも教師ならそんなことに疑いを持ってしまってはダメなんだろうなとも思います。


例えば私語がうるさい生徒がいるとします。そんな生徒は学校のルールでは「減点対象」となります。ルールとしてダメだから。だから「静かにしなさい。減点するよ」そう注意します。注意しないといけないから。だけど、心の中では「私の授業がつまらんかったらそりゃ喋りたくもなるよなー」と思っています。喋ったり、寝たりするより面白い授業が目の前で展開されていたら、そんな注意するまでもなく生徒は夢中になってくれるよな、そう思います。


先生としての自分のあり方


基本的に私は生徒たちと対等な立場に立っていたいです。一応教師という立場ではあるけれどみんなの方がよく知ってることもあるし、少し長く生きていること、少し勉強がよくできることは何も偉いことじゃないよな、と思います。だから自分は「何を教えられるんだろう。何も教えられないな」そう思います。単語を教えられる、文法を教えられる、そのことは何を生み出すんだろう。何が偉いんだろう。

学校での勉強が人生をつくっていくとは私は思いません。学校の勉強なんかより、よっぽど他のことの方が大事だと思います。


基本的に私は生徒みんな一人一人のことを信じているし、信じたいと思っています。勉強ができなくても、何かしくじったとしても、その子にはまた別のいいところがあって、素敵な部分があって。それを私はその子に伝えたいし、その自分のいいところを信じて自分の道を進んでいって欲しいと思っています。

でも今の学校教育はみんなと同じように何かができないとその人を丸ごと否定するような空気を感じます。非常勤講師をしているもう一校は定時制高校(夜の学校)です。そこで過去に勉強ができないことで学校の先生から否定された。その経験が今でも忘れられないという生徒と出会いました。

英語が苦手で嫌いな子でも、人に対して嘘はつかない、友達に優しい、そんな素敵な部分を私は知っていて。それだけじゃいけないんでしょうか?「勉強ができない。校則が守れないと、社会に出たら通用しない」そんな言葉を聞くこともあるけれどその社会はあなたにとっての社会であって、その子の生きる社会はまた別にあるんじゃないのかな、そう思ったりもします。


今日たまたま植松努さんのこのスピーチを見ました。

校則で縛り付けられて、周りの先生から否定され、いつしか自分で自分のことも否定してしまうようになる生徒がこの瞬間にもたくさんいるのだろうな、そう思いました。


自分はなんで生きているんだろう


私はなんのために生きているんだろう、このことについて考えては考えを更新し続けています。最近の私は「自分の周りの人、関わった人を一時的にでもいいから1人でも多く笑顔にしたい、辛いことがあっても小さな幸せを見つけて、みんなで支え合って生きられる社会をつくりたい」そのために生きたいなぁとなんとなく思っています。

それを実現するための手段にDxPを今は選んでいます。

自分がやっていることが常に正しいとも思わないし、偉大なことだなんて全く思わないけど、価値はあると信じています。誰かの笑顔をつくることに、みんなで支え合って生きられる社会をつくることに繋がっていると信じています。

DxP=自分ではないけれど、自分の一部に確かに必要なものとしてDxPがあることを日々感じています。

非常勤講師の契約は今の所7月末で切れます(病休の先生の代わりなので)。それまでの残り授業数回、何を考えながら何を生徒たちに届けようか。自分が学校で働くことの意味はなんなのか。考え続けていこうと思います。

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