思想ンヌ 2023/3/13

 ちょっと油断すると日記が終わるな。だって何も書くことないんだもの。

 「日常で何かちょっとしたことが起こる」ということに関しては、都会に住んでいる方が体験しやすいのだろうと思う。たとえば電車通勤ならたくさんの人とすれ違うし、飲食店やコンビニに寄ることも多いだろうし、天候にも敏感になるはずだ。
 一方で俺の今の生活。朝夕決まった時間に起きて、通勤は車なので誰とも会わない。帰りにちょっと酒を飲むことはできないし、寄る店はスーパーくらい。徒歩の時間がゼロなので雨降ってても関係ない。仕事や家族のことはあまり書きたくないので、そうすると本当に書くことがない。根本から日記に向いていない生活。


 少し前までは家族として子供をもつことの意味をあまり感じなかったけど、今はポジティブに捉えている。

 人間としての成長はせいぜい20代でピークを迎え、あとはゆっくりと衰えていくのが人生だ。もちろん新しいことは何でもできる……とはいえ、あらかた可能性は見えてしまっている。俺がこの先プログラマーになることはできるかもしれないが、プロ野球選手になることは絶対にない。人生の目標も特にない。積極的に死にたいとは(今は)思わないけど、生きていく理由も特にない。
 幸いにも俺は結婚しているので、妻を支えるために仕事して金を稼いでいるという側面はある。そうでなかったら今頃どんな生活をしていたか想像もつかない。どっかで野垂れ死んでいたかもしれない。そうなりたくない、とは今でも思わないけど、俺が死んだら妻が困るので死なないでいられているという感覚がある。

 で、たぶんこの先、子供がいなければ平坦な日常に耐えられそうにない気がする。
 日進月歩で成長していく存在、まだ何にでもなれる可能性を持つ存在を見守るというのは、とても楽しそうに思える。扶養する責任も生じるから、俺を緩慢な死から遠ざけておくのにとても役立つだろう。独り立ちしてしまえばまた日常が帰ってくるわけではあるが。(だからこそ老いた人は孫を求めるのだろう。)

 子供を自分の生きる意味にするというのは、あまりにも親のエゴに過ぎるという自己批判的な考えも同時にあるけど、親のエゴ以外で産まれてくる子供なんていないのだから、それでいいのだ。俺たちは皆、自身の望みではなく、親の望みによって産まれてきたのだから。もちろん、子供は独立した人格であることを意識して、その可能性を妨げないという最低限のルールは必要だが。


 ほら、生活に何もないとこんなことを書くしかないんですよ。思想家は田舎に住んだ方がいいっすよ。

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