見出し画像

さよなら、おっさんずラブ

2016年の年末、単発版から始まった「おっさんずラブ」。連ドラになった2018年のシーズン1、映画版、シーズン2としてパラレルワールド的な作品となったin the skyを経て、約2024年の1月に始まった「おっさんずラブリターンズ」が3月1日をもって最終回を迎えました。

私は四半世紀ほど細々と商業BLコミックを中心にBLを愛好し、ここ数年はアジア(主にタイ)BLドラマにハマっている、いちBL愛好者です。おっさんずラブだけを継続して応援し続けてきた熱心なファンではないけれど、単発版を録画視聴し、シーズン1の時はBlu-RayBOXや公式本を買い求め、映画も見に行ってin the skyもリアタイしていました。ちなみにサムネ画像の公式本やBlu-RayBOXは本棚に眠っていた私物です。

おっさんずラブとの出会いや思い入れは視聴者の数だけあると思いますが、BL愛好者である私にとってのおっさんずラブシーズン1は、それまで私が愛好してきたBLのように「男性同士の恋愛を幸せに描いた物語」が実写ドラマとなって世間の共感と賛同を得たことで、それまで周囲にはあまり話してこなかった自分の「BLの物語が好き」という気持ちを肯定してくれた作品で、シーズン1〜を全肯定しているわけではないけど、当時の自分にとってはそれなりにエポックメイキング的な作品でした。

しかし、シーズン1から映画やシーズン2を経て、2024年に5年ぶりに帰ってきたおっさんずラブリターンズをもって、おっさんずラブというコンテンツは、私の中で完全に終わりました。お別れを言いたいと思って、この記事を書いては消し、を2話くらいの頃からやってます。

以下整理するために書いていきますが、全然まとまってません。思い出してないだけでまだ引っかかりはたくさんあるんだろうけど一旦書かないと整理できないので書き連ねます。ちなみに私は「公式の意図が全て」とは全く思っておらず、作品の解釈は視聴者の数だけあると思っていますのであしからず。


最初に引っかかったのは「嫁姑」という、男性が女性を支配する・女性は男性に従属する、今はもうない「家制度」の名残りを使うこと。どんなに世の中が変わっても、男性である武蔵と牧と春田は家制度の価値観の中では絶対に支配される側には回りません。

そんな安全圏から女性が支配されるために使われてきた呼び名(そして今も皆なんとも思わずに使ってる言葉)でドタバタを繰り広げる。また、チャラいけど真摯に蝶子を思ってるマロが母親と同居を言い出し「俺も蝶子も仕事でいない間に家事とかしてくれたら」とか、困る蝶子相手に「俺の親なんだから仲良くしてよ」とか「浮気してんすかね」とか、古い価値観に染まってて違和感しかありませんでした。

結局、蝶子の話で牧に「部長と仲良くしてよ」と言ってしまった春田が反省したり、同居を言い出したマロは責められずに推しグルが同じという幸運な外的要因で蝶子の「嫁姑」問題が解決したり。なんかずっと問題解決において男性が透明化されているところが嫌すぎました。シーズン1から自立した大人・愛される優しい人として蝶子は描かれるものの、その優しさを便利づかいしすぎだろ。

また、シングルマザーであり、倒れるまで働くちずも、春田と牧に「子どもを持つことの大変さ」を教えるだけの存在になってしまっていて辛かったです。

2話ではちずが結婚が何かふわっとしてるという春田に「そういうの(法的根拠や式)ちゃんとやってても別れる時は別れっから」牧に「結婚ご愁傷様」というけど、それが例えちずの苦い経験から出た言葉であったとしても、シーズン1でパートナーシップに触れ、子どもを育て、身近に同性カップルのいるちずに、同性同士の結婚においての権利不平等を透明化して個人の愛の話にするようなこと言って欲しくなかったし、権利のない二人にご愁傷様なんて言わないで欲しかった。

そして彼女が倒れるまで働いて過剰に自分を責めるところも辛かった。ちずが倒れたのって、ちずが「周りに頼らず頑張り過ぎた」というより、家事代行を週2で使ったり(春田達に家事代行を勧めたのはちず)兄家族を頼ってもなお仕事と生活に手が回ってないってことなんですよね。「吾郎には父親がいない分私がしっかりしないといけないのに」って言わせるのも嫌だった。浮気して離婚して育児にも関わらないクソ父親は都合上透明化されてるだけで「いる」んですよ……。クソが……。

最後の舞香の言葉も、いかに感動的でも、ずっと罪悪感に溢れているちずが一瞬でも「責められた」と勘違いするような口ぶりは辛かったし、結局「抱え込みすぎるちずがよくない」という構図はかなり嫌でした。

何より、吾郎がちずの靴の汚れを自分の服の袖で拭くのが痛ましくて辛過ぎる。何を思って子どもにあんなことさせたんだろう、感動します?あれ。高校生くらいならまだしも、家族の中の一番の弱者の3歳の子どもに靴を??服の袖で???拭かせることになんの意味が???

自分も子どもがいてパートナーと協力して子育てしているけど、働きながら子育てするのはそうしないとどうしようもないからそうしてるだけで、尊敬とか言われてもなって感じだし。周りから「頑張らずに力を抜いて」みたいなのもよく聞くけど、頑張らずに力を抜いたら子どもが死ぬから頑張らざるを得ない人だってめっちゃいるわけで、そんなもん継続的にフォローできる環境を用意してから言えや……。

春田も「倒れる前に頼って」とはいうけど「扶養家族がいなくても家事代行週3頼まないと家が回らないサラリーマンカップルに頼れるわけないじゃん」と冷めた目で見てしまったし、春田と牧の感想が「荒井家っていいよな」「ほっこりしました」「子ども前は欲しいと思ってたけどそんなに簡単じゃないね」と述べ、犬を飼いたくなるかも/養子を考えるかも、と並列で出されたのももやもやしました。いや、私も犬は家族だと思ってるけどこのトーンで養子と並べるべきじゃないと思いますよ…………。

リターンズ、春田や牧が異性婚でよくあるケア問題にぶつかる様子が描かれるのですが、どれも恒常的に春田達が被るケア活動ではないんですよね。ちずの不在で一時的に吾郎の世話をしたように、牧の父親の看病も、牧と牧の母親と妹が海外旅行で不在だから一時的に春田が行ったわけです。もう、当然ちゃ当然なんですけど、全部彼らの経験のために用意された舞台でした。

いちばん迷走していたのは武川さんだと思います。ゲイであり牧の元彼であり春田の上司でもある、厳しく真面目でまっすぐな武川さんは、リターンズでは将来を不安視し、パートナーを探し求めるキャラクターにされてしまっていました。最終的にケアされるパートナーではなく、武川さん自身がケアする対象を見つけたことは良かったのかなと思いますが、毎話どうして武川さんだけがこんな描かれ方をするのか不思議で仕方なかった。

6話の武川さんが春田と牧の「結婚」に法的根拠がない(=配偶者としての権利が得られない)ことを、やはり2話のちずと同じく「法的な根拠があってもその愛が永遠に保証されるわけじゃない」と個人の愛情関係の話にすり替え「お前たちのように仲間の祝福を受けるだけでも俺は充分だと思う」と言い、春田に飲み込ませたのは、どういう背景があったとしてもセリフとして酷いものだと思います。

ちずや武川さんが言う「法的な根拠があったとしても愛は永遠じゃないよ」「お前たちのように仲間の祝福を受けるだけでも俺は十分だと思う」というメッセージは、異性カップルが当たり前に持つ権利を持てない同性カップルがいるという不平等の肯定や透明化でしかない。

それを人気作の続編で民放で流すことの意味がどういうことか。放送時間が遅いとかは配信時代の今関係ないし、アマプラのレーティングは13+になってますが、ローティーンの当事者が「仲間の祝福を受けるだけでも十分」というのを聞いてどう思うかなんて一切想像してないんでしょうね。

春田と牧は何度も「届けを出したわけでもなくふわっとしてる」「法的根拠があるわけじゃない口約束」と繰り返しているので、彼ら自身も異性婚のような結婚の権利が同性同士の自分たちにないことを「それでよし」とはしていないのに、その都度ちずや武川さんの言葉によって「そうすね」と飲み込んでしまう。

最終的に「どうなったら家族って言えるんですかね」という問いに法的に家族になる…を挙げつつも「家族っていろんな形があっていろんな正解がある」と、法的に家族の権利を得ることが選択できない同性同士のカップルに言わせるの辛すぎました。

(あと人の幸せばかり考えているという春田を幸せにする会がなぜか開かれますがその場には大人しかいませんね…子ども達は保育園でしょうか…ほんと子どもが「家族」のパーツなんだな…)

春田と牧が帰ってきたことは嬉しい。武蔵も元気で良かった。新しい人間関係もできて良かった。陶芸で春田が牧の作ってるのを横からグチャってしたのはすごく嫌だったし(そんなん後から優しくされても百年の恋が冷めるわ)、春田の母親の恋人の束縛の強さが気持ち悪いとか、乱闘がもうめんどいとかオマージュがしつこいとか色々あるけど、春田と牧が幸せな気持ちで生活してるというのは良かった。

しかし制作側のnoteやインタビューを少し読んで、ほんとにこの規模でこのメンバーと知名度で同性愛表象が含まれるドラマをやるのに、社会に伝わる表現よりも、差別を被ったり、権利がなくてもいいと思ってると誤解されたりする人たちよりも、ファンへの恩返し・チームは家族・自分たちが思うことを貫く、といった自分たちのコミュニティを大事にしたい制作陣なんだなと思いました。

唯一の救いは最終話にゲスト出演した坂口さんが「ファンタジーじゃない」と投稿してくれたこと。これが1万いいねされることがもう答えだよ…。

作品の波及力自体はとても大きいので、本作を見てそれまで関心がなかったけど同性婚に関することに興味を抱く人もいるかもしれない、同性同士というだけで様々な権利が得られない差別に気づくきっかけになりうるかもしれない、私も確かに2018年の時点では春田と牧が結婚できないなんて!ひどい!と思いましたし、そこから様々な作品を見て自分の中でも視点が変わっていきました。

だけど、そういう意義があるのだからこの作品に価値があるというのは、マジョリティの座に胡座をかいて、差別に目を向けてこなかった人の偉そうな思い上がりだと今は思います。私がかつてそうだったように。

おっさんずラブを大切に思う人は、当事者でもそうでなくてもはっきりしてなくてもたくさんいると思うけど、私はもうそう思うことができません。

だからもう、さよなら、おっさんずラブ。

読んでくださってありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?