見出し画像

山登り人生vol125長崎七高山巡

29歳。長女4歳、長男2歳半。
昭和53年度は、20代最後の年でした。
年間24回45日の入山で前年より10回減りました。
相変わらず黒髪山系への入山は8回と多く
会長誕生祝いや創立25周年を祝いました。
念願の根子岳山口谷への山行も実現しました。
この年度を振り返ります。

No243長崎七高山巡り(県登山大会) 

昭和53年5月20∼21日 
Y会長、S、Y女史と私
SSK山岳部、諫早・島原・長崎の山岳会、長崎登高会、
長崎市教組・長崎商短の山岳会、三菱電機山岳部から参加者多数

20日佐世保18:10⇒20:30長崎江平中学校
21日起床5:30 
  出発8:10→金比羅神社8:50→金比羅山9:30→仏舎利10:20→健山10:45→
  烽火山11:25→蛍茶屋12:40(路面電車)⇒松山13:00→13:40江平中
 
20日遅く着いた私達3人は、
テントを張り終えると夕食も済ませないで交歓会がある体育館へ。
会長は一足先に着いて指導委員会に出席。
委員会が長引き、交歓会が始まったのは21時を廻っていた。
体育館使用が22時までで、自己紹介や歌など簡単な進行で終わった。
テントに戻り各会の交歓が始まる。
遅い夕食を摂り寝袋に入ったのは2時を廻っていた。

21日朝が早い会長に5時頃起こされた。
私達はまだ夢の中である。
朝一番飛行機で大阪に行く会長は7時には学校を出発した。

長崎七高山巡りとは、
江戸時代長崎で正月2日から15日までの間に
一日で金比羅山、七面山、秋葉山,烽火山、彦山、豊前坊、愛宕山を巡拝する行事のことである。

烽火山頂

今日はその一部、烽火山まで巡ることになっている。
稜線上の金毘羅神社までは、
気持ちの良い林で空気はひんやりとして小鳥が鳴き、
本日一番の場所だった。
稜線は九州自然歩道のルートになっている。
金比羅山366mからの市街地の展望は素晴らしい。

一旦、市街地に下って再び登る。
烽火山426mは非常事変には狼煙を揚げられるように烽火台(タイトル写真)が設けられているところから、この山名となった。
正保4年(1647年)のポルトガル使節船、
文化5年(1808年)イギリス軍艦入港の際は、
利用され琴尾山烽火台へと中継され大村へ連絡されたそうである。
蛍茶屋から路面電車で松山に行き、江平中学校に戻った。

平成31年1月13日、随分と経ちましたが七高山巡りを一日で達成しました。今回投稿の写真は、その際のものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?