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日本百名山の歩み㏌よっちゃん5座目奥穂高岳

No46奥穂高岳 1971(昭和46)年4月27日~5月3日 7名の記録
4/28 徳沢幕営  4/29 停滞  4/30 涸沢BC  5/01 奥穂高岳
5/02 北穂高岳→涸沢岳→BC   5/03 下山

写真は当時のものはほとんどないですが、報告文は当時の記述です。

4穂高岳

今度の合宿は、SAC・企業山岳部合同では最後になるかもしれない。心中複雑である。私が入会する以前からの問題であるが、SACの中で山岳部員の実力が長崎国体を契機についてきて、ほかの山岳部等に所属していない一般会員との間で意識の違いがでていた。

2月例会で企業山岳部の春山合宿が鹿島槍ヶ岳で行われると発表された。当然ながらというか一般会員には参加の余地はなかった。ただSACの仲間としては同じ会であり、一般会員の育成を心配する人もおられた。そんな中、SAC会員の中に北アルプスでの合宿希望が芽生えていた。

これを受けリーダー格のM先生が穂高合宿の参加者を募ると10数名の手が挙がった。穂高合宿を一般会員の手で計画しようとの提案であった。穂高への参加希望者は男性3名、女性4名で、新人が多すぎるなど実施が危ぶまれた。その後、鹿島槍ヶ岳合宿を不参加となった二人と穂高合宿を心配するKさんが穂高合宿に参加することになった。彼らの参加で計画は進むようになった。
 連休も近づくにつれ脱落者がでてきた。最終的には4月14日総会で確定し7名となった。

19日Kさん宅で最終確認を行い合宿に望むことになった。25日食糧買出しを行いK女史宅でペミカン作りに励んだ。

27日夜行列車で出発                         17時までの仕事を終え、佐世保駅に飛び込む。
計画段階から迂用曲折があったこの計画も、いよいよ始まるのである。Y会長他たくさんの見送りを受けて17:32西海1号自由席で佐世保駅を後にした。新聞発表によると今度の連休は、天気に恵まれないようだ。

28日大阪・名古屋乗り換え松本へ。タクシーで上高地入りし徳澤園    夜行列車は眠れない。4時頃には数名が起きていた。まだ、汽車は姫路を過ぎていない。各地で新幹線の工事が進んでいる。大阪が近づくと通勤列車と前後しながら大都会に入って行く。大阪で名古屋行き急行比叡に乗り換える。名古屋では長野行き急行赤倉にと二度乗り換える。昨年はこの中央本線を通過したのは夜であった。松本までは初めて見る光景に目を奪われる。初めて雪を見たのは御嶽山か、川の流れの向こうに白く大きな山容を構えていた。白樺が目立ち始め松本平野も近くなると、桃・さくらの花が咲き誇っている。リンゴの花にはまだ早いようだ。辺り一面に続く葡萄畑、桃畑、リンゴ畑、その遙か先に常念の山々が白い衣を見せている。列車は塩尻で方向を変えた。14:20二度目の松本駅に足を踏み入れた。

買出しを済ませ、大型タクシー二台に分乗し上高地に向かう。新聞発表とは裏腹に、今年の雪は非常に少ないと運転手が話してくれた。M先生の話だと、梓川の水が例年より少ないとのこと。釜トンネルを過ぎ、車窓越に穂高連山を見ることができた。上高地が近づくにつれメーターが上がる。マイクロ1台6,000円を見込んでいたが、タクシー2台で7,700円となった。標高1,300mの上高地に降り立つと冷気が身を包む。帰りの足を確保するため3日午後3時にタクシー2台をと予約金2,000円を払い予約した。

1971穂高合宿

まだ、陽は高い。明日の行動を考えて、行けるところまで進むことにした。皆のキスリングは30㎏。いつまでも明神岳を右に見て、梓川の流れに沿って歩く。今日入山するパーティーは連休前のせいか少ない感じである。明神岳が後ろになり前穂高岳が見えるようになると、氷壁の宿徳沢園が見えた。テント数はまだ3~4張位である。キスリングを降ろしテント場使用届けを徳沢園に出す。1名30円であった。

テント、ツェルト各1張りを張って夕食の準備にかかる。空模様が怪しくなり、直ぐ雨が降り出した。このテントに7名は寝れると思っていたが、無理なようだ。食事を始める頃には、幕営技術の悪さもあってテント内に水が溢れ出す。次の山行からはフライを携帯した方がいい。夕食のすき焼きとご飯では少なく、ウドンを追加した。天気図を作成すると、二つ目玉低気圧が朝鮮海峡と太平洋を九州からゆっくりと東北東に進んでいる。しかし、明日の起床は6時として、シュラフに入った。Kさんはツェルトに入った。

29日徳澤園停滞                           昨夕からの雨も夜半には雪に変わり起床した時は、辺り一面白一色の銀世界である。朝から雨、雪、霙と安定しない。朝食は早く済ませたが、天気が落ち着かない。昼から行動しようと荷物を整理して時間を潰す。ささやかに望みをかけていたが9時の天気図で今日の停滞は確実となった。まだ二つ目玉低気圧が通過していない。今日の入山パーティーも行くか止まるか思案しているようだ。濡れ鼠姿のパーティーやヘルメット姿も。テントを張りなおし、もう一張りツェルトを追加する。M先生のツェルトにK女史、テントに4名、SACツェルトにKさんと別れた。21時の天気図で明日は回復することがわかり、4時起床、5時半出発として二日目の夜を迎えた。

30日涸沢入り                            4時起床。朝食準備は早かったが出発は遅れ6時となった。一昨日までとは違い前穂、北尾根は白い雪を被っている。横尾まで先日と同様、梓川に沿って歩く。新村橋が出来上がっていた。2ピッチで横尾に着いた。ここをベースにするパーティーも多いが、テント数は例年の半分らしい。ここで槍ガ岳方面と分かれ山荘前の橋を渡って涸沢を目指して歩く。屏風岩からは新雪が盛んに雪崩れている。層雲が二層になり山を三分にしている。大学山岳部のしごきの声が・・・・新人は辛いものなのか?
 川を離れ急な登りが始まり、林の中に入った。この附近になると昨日からの雪がかなり積もっている。林を抜け雪に埋もれた沢を渡ると、後は雪一色の急登となっている。2~3パーティーを追い越し、南岳と涸沢分岐で小休止し、腹ごしらえをする。先ほどの大学生が近づいてきたので出発した。雪渓が続きガスっていてあまり視界は利かない。先行パーティーの列はガスの中に消えて行く。
後2ピッチ程でバテはじめ前の二人より遅れる。K女史は頑張っている。後10分、涸沢団地は直ぐ上である。トレーニングをやっているのか、ホイッスルの音が涸沢カールに響いている。やっと着いた。重荷から解放された。設営、入山届を済ませた後、水場近くに設営した。テント内でゆっくり休養する。
天気の方はまだすっきりせず、穂高の雄大な眺めもまだ拝めない。Tさんはサンオイルを塗って外に出ている。皆は横になり寝不足を補っている。4時近くまでゆっくりして、天気図を取る。明日は晴天である。この頃より北尾根や北穂、東稜など姿を見せるようになった。今回の食糧計画は、アルファー米とペミカンをベースにしているので準備が早い。ベーコンは腐っていた。今日も早く寝る。(写真は1973年5月時の入山風景)

1973年5月穂高2

1日奥穂高岳に立つ                          5時起床。まだ雲が残っている。練習する場所を探しながら登る。ザイテングラードの東側、岩が露出した上部の右側で滑落停止の訓練をする。慣れてくると型にはまってくる。10時頃、奥穂高岳を目指す諫早のTさん達と会い、我々も訓練を止め一緒に行動する。
 一歩一歩声を掛けながら登る。K女史少し遅れ気味。雪が盛んに落ちてくるので上を見ると、登りのトレースを壊しながら降りてくる馬鹿な連中が・・・・・・。M先生が一声どなる。謝りもしないで降りていった。コル手前でアイゼンを着けヤッケを着用して登る。2ピッチでコルに到着。コルには30名程の登山者がいた。ここまで来ると飛騨側が見える。笠ケ岳の大きな山容が目に入り、大きな山なみが続いている。

白出のコル岩場には何パーティーか取り付いているので暫く時間待ちして、まずは諫早パーティーが取付き、その後を我々が追う。一般ルート左側を登るが無理と言うことで一般ルートをノーザイルで通過する。岩場を過ぎ雪田を登り、岩が多い稜線を登り終えると、3,190m日本で3番目に高い奥穂高岳に立つことができた。頂上は、そう広くはなかった。絶景である。
遠く富士山から眼下には上高地が。西穂ジャンダルムへの稜線、前穂への吊尾根、北には槍ガ岳を中心に野口五郎岳、薬師岳へ。西に遠く白山連峰が。ジャンダルムにも3名の登山者が縦走している。痩せているので2名は四つ這いだ。暫く写真を撮り、奥穂と別れる。

帰りは、同じルートを引き返す。岩場上の雪田通過は緊張した。一つ一つピッケルを差し込み下る。白出のコルで間食を摂り下降を始める。Kさんを最初に皆も尻制動で下る。苦労して登った斜面も下りは楽である。上手に制動して下らないと転んでしまう。自分も2~3回転する場面もあった。半分程下った時だろうか。10m程横を滑りゆく登山者が居た。K女史であった。Sの話では、ビニロンのオーバーズボンを着用していたが余り滑らなかったので、制動を掛けず滑っていたら途中よりスピードが増し、その瞬間ピッケルを手放しあの結果になったようだ。滑落中にピッケルが彼女の頭上を左右に飛んで周囲の者は緊張の瞬間だったようだ。尻制動する前にしっかり方法を教えていなかった我々にも大いに反省するところがある。結局は、先頭のKさんも追い抜いて、自分でピッケルを掴んで止まった。滑落しながらKさんの「大丈夫か」の声は聞きとれたらしい。無事BCに戻る。

BCに着くとシュラフを干したりコーヒーを沸かしたりする。諫早のメンバーは横尾まで下っていった。K女史はどこも怪我はなくホットする。夕食後、M先生より明日の行動について発表がある。まずメンバーを二分し槍ヶ岳縦走組にK他2名、穂高縦走にM先生他2名となる。K女史は明日の調子をみてとなった。
 明日は早立ちで早く寝ようとなったが、シュラフに入ったのは21時頃であった。

2日 晴のち曇のち雪。稜線は吹雪。北穂高岳へ。悪天予報で下山を決定           12時に一度目が覚める。その後、2時。Sの「起床」の声で起きた。朝の献立は早くできるよう計画していたが、出発は3時半となる。K女史は休養となる。M先生をトップに北穂沢に足を踏み入れる。登りは急でアキレス腱が痛い。ジグザグ気味に登って行く。涸沢団地が段々と小さくなる。まだ2~3パーティーしか行動していない。夜も明けだす頃、トップを交代する。日の出が近くなったのでルートを南稜の斜面にとり、トレースのないルートを登る。
半分以上登った所で、東の空が赤みを帯びてきた。暫く休んでシャッターを動かす。空の方は絹雲が増えたようである。ラッセルを交代しながら登るが、このアルバイトは苦しい。初めての経験で上手くいかない。
北穂沢には3~4パーティーが入っている。沢の中央部を統制されたパーティーが登って来る。大学山岳部らしい。アイゼンも着けていなかった。  我々はトレースのあるルートに戻り北穂に向かう。この沢は一気に3,000m以上の稜線まで突き上げている。傾斜もきつい。
北峰と南峰のコルに着くと、目の前の滝谷に吸い込まれそうである。滝谷登攀者のテントが強風に煽られている。コルから数分で北穂山頂に着く。展望は素晴らしい。奥穂からは見えなかったキレットやキレット越に見る槍ガ岳もまた良い。黒部五郎岳、薬師岳の山なみの説明を聞くが、はっきり判らない。ただ白い山なみがどこまでも続いている。
ここで槍ガ岳縦走リーダーと穂高縦走リーダーは、固い握手をして別れた。やはり気になるのかM先生、北穂小屋の方に下って彼等の様子を確認する。最初の雪田の下りは落ちたら最後である。数百メーターはあるようだ。雪の状態も悪い。1~2センチの氷の上に新雪が積もり、幾層にもなっている。今、彼らが下ろうとしている斜面も同じである。アイゼンの利き具合も不安定である。また天気も心配された。槍メンバーの実力では無理と判断してM先生が彼等の縦走を中止と判断した。急斜面に2~3歩踏み出したところであった。
北穂小屋主人の友人か、「坊主も居るからよ・・・・・・」。お世話になったらお終いである。KさんもM先生から引き止められなかったら事故を起こしていたかもと。他の二人は槍ガ岳には行きたかったようであるがキレット通過は無理であったと言っていた。結果、6人で穂高縦走することになった。(写真は1992年大天井岳より奥穂高岳を望んだもの)

1992年大天井岳より穂高連峰

遠く西の空には高層雲の雲提が、この穂高連峰を目かけて流れている。風も強くなる。吹き上げてくる粉雪に顔を痛められる。南峰を越えてアルプスらしい岩尾根を歩く。飛騨側は大きく切れている。滝谷である。メンバー一人のバランスが悪い。途中、風を避け間食を摂る。ラジュースを起こしてと準備にかかるがメタがない。生でやるがダメ。生では発火点まで温度が上がらないからダメと言われる。先行パーティーがザイルを使っているので、暫く待機する。ルンゼ状の箇所が凍っているようだ。先頭の人が雪田に入ると、確保していた人は右のバンド状の箇所より下っていった。我々もそれに続く。岩稜はこの部分が最後であった。ここを過ぎるとコルに着いた。

ここでは2~3日後、二重遭難が発生した。白出のコルまで行く予定であったが、天気の方は崩れる一方である。涸沢岳手前のコルから稜線と別れ下ることになった。稜線を先に行くと涸沢槍から涸沢岳へと続くのである。ここまで以上に面白いコースのようだが下ることになった。BCに向け尻制動である。思うように滑らない。一人のロングスパッツの紐が外れたようだが、M先生曰く、雪山では許されないと。

BC着8時。ゆっくり休養しようとしていたK女史はびっくりである。9時の天気図で、今後良い天気は望めないと判断し今日中の下山が決まった。早速腹ごしらえして、下山の準備にかかる。奥穂高岳も見えなくなった。12:30涸沢を出発する。まだ、連休の中日、入山パーティーがどんどん登って来る。背にした山に未練は残るが、それを打ち消すかのように早足に下る。苦労して登った雪渓をあっという間に下ってしまう。時々、雨に見舞われる。横尾では諫早パーティーを探したが見当たらない。
徳沢園ではラーメンを食べるがインスタントにカマボコ2枚を入れただけのもので、我々が作る山のラーメンと変わらなかった。上高地では、予約していたタクシー会社がストに突入しており、バスと電車で松本に向かった。
 信州会館で下山祝いにビールを飲み、今年の春山合宿を終わった。二人は夜行で帰る。残りは信州会館に泊まる。(写真は1973年5月時の上高地)

1973年20周年穂高合宿

3日 朝食は駅上の日本食堂で。出発まで時間がありお土産の買い物など時間を潰す。時間が近づきキスリングをチッキで送る。11:04のちくま1号はなく11:36になっている。駅そばを食べホームに入り汽車を待つ。K女史具合が悪いと言い出した。顔を腫れ赤くしている。汽車がホームに入り取りあえず乗り込むが、容態は悪くなる一方である。本人は食中毒と言う。蕁麻疹も出ているらしい。塩尻駅で薬がないか尋ねるが手配できなかった。我々の薬も送ってしまった。こちらが心配しても何にもできず、イライラする。トイレに入ったまま出てこない。出てくると峠は越えたというので、少し安心した。
 名古屋までは横になったままである。大阪到着は19時過ぎで乗り換えが気になったが、臨時急行西海52号が運行しておりホットする。大阪でまだ腫れが取れないK女史、親戚の家に寄って病院にかかるという。彼女と別れ夜の大阪をぶらついた。

4日無事帰宅                            西海52号は全席指定車と慌てたが、座席は確保できた。汽車に乗り込むと車内はガラっとしていた。無事帰宅する。6日帰宅予定が4日とびっくりしていたが、テレビで谷川岳遭難をテーマにした番組が放送されたらしく親は心配していた。無事山は終わったが、K女史のアクシデントは禍根を残したようだ。
 K女史は二日間大阪で療養し帰佐したが、病気は完治していないとのこと。見舞いにいったが、ご両親から下山後直ぐ病院に行ってもらいたかったと苦言をいただいた。一旦仕事に出たらしいが検査の結果、肝臓の方を傷めたらしく今も自宅療養(5月26日)されている。
 3・4日には多くの山岳遭難があり、新聞紙面を賑あっている。40年につぐ遭難が発生したらしい。

穂高連峰にはこれまで13回入山しているが、2002年8月を最後に涸沢には入っていない。

次は6座目石鎚山、7座目大山、8座目槍ヶ岳です。

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