見出し画像

山登り人生vol128大正15年夏の知床

29歳。長女4歳、長男2歳。
昭和53年度、20代最後の年です。
年間24回45日の入山で前年より10回減りました。
相変わらず黒髪山系への入山は8回と多い年で
その山行を振り返ります。
その②毎年恒例の会長誕生祝山行も竜門で開催しました。 

竜門ダム

下書きでは、タイトルを「恒例山行会長の誕生祝い」にしていましたが、
会長の思い出話が興味深く「大正15年夏の知床」に変更しました。
Y会長は北海道大学山岳部創設者の一人でした。
1992年7月9日ご逝去された。享年87歳。
私とは44歳の年の差でした。

No246会長誕生祝山行(黒髪山系ソーメン沢~銀流沢) 


昭和53年7月22∼23日 
竜門キャンプ場にて
所属会20名
S山岳部から10数名、市役所山岳部から1名、国体候補選手の諫早山岳会等から3名等、大勢で会長73歳の誕生をお祝いした。
7月20日の誕生祝い山行は、毎年7月の恒例行事でした。 

22日S山岳部の方々に全面的に夕食準備をしていただいた。
参加者は三々五々集まり、祝いの宴は夜遅くまで続いた。

23日S山岳部、市役所山岳部の大半は朝から帰った。
残りの者でソーメン沢を登り銀流沢に下った。
沢の中は流石に涼しかったが、
12時頃山の家に戻るとうだるような暑さとなった。
冷やしソーメンを食べていると会創立当時のK氏が来られ会長と親交を温めておられた。

ひとつは剣岳から唐松岳

会長のお話(山行報告より)
毎年祝っていただき有難い。
誕生日が山だった記憶は2回あります。

大正14年7月、
出発は飯田橋駅(今は新宿駅)
1日目松本~針木峠の雪渓で幕営
2日目籠渡し(今は黒四ダムのため水没)で黒部に渡り、室堂に泊まる。
ここの便所は下を水が流れていた。称名の滝に流れていくのだろう。
「かわや」と言うのか。
3日目立山を経て剣沢に幕営
4日目長次郎雪渓から剣岳を往復。この日が7月20日。

こんな眺めだっただろうか?

誕生日を予想してザックにソーセージを入れていた。
剣の頂上で取り出し、「今日は僕の誕生日だよ。」と二人に振舞った。
池の平に幕営、安積君が「あざみのおしたし」を作ってくれた。
この「あざみ」は普通の「あざみ」じゃないことがわかった。
野菜を食べていない時のこと、実に嬉しかった。

2022年秋の仙人池からの眺め。池の平からはどんな眺めだったか?

5日目小黒部を下り、黒部の本流に出て祖母谷幕営。
6日目唐松岳幕営
7日目八方尾根を下り松本へ。
この山行は宮沢精君と安積樟君と三人だった。

このコースだったのか?

ふたつめの記憶は(知床羅臼岳)

翌大正15年夏、
知床の羅臼岳縦走を目指した。
(中略ですが「大島京吉、槙有恒、三田幸夫」らの名前がでてきます。)
先ず網走の土木事務所勤務の親戚の家に行った。
稚内出張中で事務所に出掛け、
山に行ける人夫は居ないか尋ねたら、
海別のアイヌ部落に行ったらとのこと。
斜里まで行き、海別まで歩かねばならない。
当時は斜里までしか汽車はなかった。
車中でウトロの人と話をすると、ウトロに居ると言う。
この日斜里に一泊して、翌日ポンポン船でウトロに行った。
人夫大泉幸太郎に連絡をして貰い、宿で話したら行きますとの返事。

翌日、ウトロから岩尾別温泉まで歩き一泊。温泉は空室。
歩いて来た所は荒畑の道。
バッタの大群から荒らされ、開拓した畑から逃げ出したとのこと。
掛け桶を取り付けた屋外の風呂に入った。
炉のそばで寝た。
その後、毎日天幕の中は蚤取りが日課。痩せ蚤が肥ってきた。
ここからは沢登り、途中一泊して頂上に着いた。
西の方から雷雲が来ている。
岩ばかりの頂上では危ないと北側鞍部に逃げて、
少々雪もあったので天幕を張る。

ネット借用

翌日は一日雨。次の日はガス。
天幕傍の雪は無くなったので、ハイマツの中の雪で炊事した。
2日間停滞。
夜が明けたら快晴。
国後のチャチャヌプリが綺麗に見える。
「僕の誕生日だ。」
硫黄岳に向かう。鞍部に行ったら水がある。
硫黄の往復は、ハイマツを避けながら歩き易く楽だった。
翌日は羅臼の東側を下る。大きなハイマツが続く。丈は2m以上もある。
枝から枝へと下る。
落ちると這い上がるのがひと苦労。あんな大きいのは初めてだった。
羅臼から南への縦走は打ち切る。
尾根は黒々とした林だ。
沢に下って大泉が赤川の上流に作った笹の小屋に入った。
翌日、ウトロまで一日で楽に着けた。
これは大泉が「ナタメ」を付けているだけの道だった。
(後略)

 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?