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山登り人生vol43春の槍穂高縦走

23歳、この頃、現役ながら良く登っていました。
昭和45年度30回80日、昭和46年度41回90日の記録が残っています。
H先輩と二人での初めての槍ヶ岳、大キレットの縦走、二度目の北穂高岳でした。

No89春山合宿(槍ケ岳∼北穂高岳縦走)

昭和47年4月28日∼5月4日 H先輩と私
28日佐世保出発

      佐世保17:20夜行寝台急行西海2号にて出発。見送るS君残念そう。
29日列車延着、タクシーで上高地入り。
     上高地15:30→明神16:30→徳沢17:15  19:30就寝。
30日槍ヶ岳山荘入り
 起床:薄曇り、昼:快晴、肩山荘着:晴れ南西の風・
  南の空に無数のレンズ雲、夕方:北西の風・強風・時折雨、
  夜台風のような雨風小屋が吹き飛びそう。
  徳沢4;45→横尾5:55→槍沢ロッジ7:40→第2モーレン取付9:35→
  第1モーレン取付11:40→14:00槍ヶ岳山荘

2014年5月時の槍沢

1日停滞。朝:強風雨、夕方:吹雪。
 起床5:00。ラジュース調子悪く、午前中修理。後は寝て過ごす。
2日停滞(風雪の中、槍ケ岳往復)
   
朝:吹雪、15時頃収まる。時折青空・風強し、
   この時間帯で槍ケ岳往復する。
   起床3:00、山荘15:30→槍ヶ岳16:00→16:20山荘
3日縦走開始。大キレットから穂高連峰へ
    午前:快晴・風強し、午後:薄雲から快晴・風弱まる。
 起床3:00、山荘6:00→中岳6:40→南岳小屋7:35→キレット下降終了点8:15→       同上降点9:25→北穂高岳12:55→涸沢岳13:45→白出のコル14:30→
   15:00涸沢ヒュッテ。就寝21:00。
4日下山.県内N登高会の遭難
 午前:高曇りレンズ雲、昼:絹層雲、夕方:雨。
 県内N登高会の遭難が発生し、支援のため白出のコルに再度登る。
   起床5:30、涸沢ヒュッテ7:20→9:20白出のコル10:15→10:50涸沢13:45
   (遭難  N登高会のテント撤収)→15:00横尾(職域山岳部のテント撤収)17:45→
   徳沢18:40→20:00上高地21:00⇒22:30松本23:59(解散)

装備について

ラジュース不調、完全なものを持参すべき。
スノースコップは取手がしっかりしているものを。ヘルメットOK。
石油4.6㍑持参・3㍑処分、雪洞利用しなかったためだが要検討。

食料について

行動食が不足した。味付けアルファー米が良い。
乾燥野菜ネギと味噌は重宝した。
食パン長持ちせず。
焼き豚腐り少しだけしか食べれなかった。

気象について

教科書通りの気象変化で勉強になった。
槍ヶ岳で見たレンズ雲は思い出で残るだろう。
2昼夜衰えない風、一寸先も見えないガス、台風のような雨、それに吹雪、スケールの大きさに恐怖を感じた。

その他

素泊まり1000円の小屋に4泊もして餞別が役立った。
テントやザックなど所属山岳会名など記入していた方がいいと思った。
厳しい縦走など重量20Kgは限界に近かった。

ここからはH先輩、リーダーの報告より

今回二人で槍ヶ岳から西穂高岳までの長大な雪と氷と岩の縦走を計画実行に踏み切った。
結果的には涸沢岳までで後半の西穂高岳は失敗に終わった。
天候不順や県内パーティーの遭難支援もあるが、
リーダーの意欲低下もあった。
厳しさを求めて入山したのに、安易な方向に妥協してしまった。
より厳しい登山を目指すには強靭な精神力と体力が必要である。
小手先のテクニックでは通用しないと痛感した。

29日3度目の穂高である。

西穂の稜線が白く輝き身が締まる。
計画書を提出し雪崩注意報が出ているのでとアドバイスを受ける。
河童橋を左に見ながら梓川に沿って歩く、1時間もすると明神である。

2014年5月時の上高地

慶応大学山岳部と一緒に歩きOBと間違われながら徳沢に到着。
横尾までの予定だったが、ここまでとした。
二本の木にツェルトを吊るし泊り場とした。

30日槍ヶ岳山荘入り

出発が遅れたが急いで横尾へ。
屏風岩の大岩壁を見ながら進む。
一ノ俣から先は本格的な登りとなる。長大な槍沢は忍耐の登りである。
陽も高くなり雪も腐ってキックステップでゆっくり登って行く。
右側の沢から雪崩が発生しヒヤリとしたが規模小さく問題はなかった。

2014年5月時。槍沢から槍ヶ岳を見る。

槍ヶ岳頂上が見えても近づかない。
槍沢ロッジから6時間程のアルバイトで槍の肩についた。
肩の小屋は2階建てであるが、僅かに屋根が出ている程度で、玄関入口まで雪を掘り出して営業を始めたばかりであった。
早速、ビールを流し込む。旨い。
この頃からレンズ雲発生して、瞬く間に雲が広がった。
天気の急変は間違いない。急いで雪洞を掘らなければならない。
しかし雪の層が氷となって思うように掘れない。
結局、小屋に泊まることにした。
素泊まり1,000円は痛いが仕方ない。
1,000円取られても部屋は雪で一杯、布団は凍っているしで散々だった。
小屋の人も恐縮したのか、部屋での炊事を許可してくれた。
夜半より狂ったように吹き荒れ、一晩中続いた。

1日停滞。風雨激しく動けない。

一日小屋の中である。
寝て過ごす。寝疲れたら食べる。
腐れかけの焼き豚をじっくり火を通し食べる。

2日停滞。昼から槍ヶ岳山頂へ。

午前中吹雪、午後雪は止んだが風強く地吹雪となる。
F(私)が槍は真っ白くエビの尻が付いていると帰って来た。
気温も下がり真冬のようである。
停滞二日目ともなると我慢できず動き出すパーティーも出て来るが、吹き飛ばされたと戻って来た。
北鎌尾根では小倉アルペンクラブの女性が1,000m滑落死亡のニュースが入って来た。

2014年5月時の槍ヶ岳

15時過ぎ、風の弱まりを見て小屋をでる。
ヤッケ、オーバーズボン、安全ベルト、アイゼン、ヘルメットと完全装備である。直ぐアンザイレンして山頂を目指す。
強風のためピッケルを打ち込み耐風姿勢をとる。
山頂直下の雪壁は2ピッチをスタカットで登る。
風によろけながら3,180m山頂に立つ。
二人だけの白銀の世界である。

2014年5月時の槍ヶ岳山頂

3日北穂高岳∼涸沢岳縦走

待った甲斐ありようやく晴れる。
今日は核心部のキレット通過である。
相変わらず風は強く厳しい寒さに苦労したが、その分、稜線はガチガチに凍てアイゼンが快適に効いた。
岩場も順調、急斜面の雪壁を下降しトラバース等快調であった。

2014年5月時。槍ヶ岳山頂から見た穂高への縦走路

南岳の雪庇は大きく4~5m程に成長していた。
キレットは易しい岩場を下降して痩せた雪稜を下る。
キレット底で休んでいると落石あり、急いで北穂高岳への登りにかかった。ここは3時間程の登りである。
所々に雪壁が現れる。滝谷の岩場が良く見える。
岩は乾いているが冷たい寒い。岩峰が次々に現れる。
岩場が終わり山頂へと雪壁が続いた。
一歩一歩ピッケルを打ち込み慎重に登る。
何度も休むが緊張の連続で、なんとか山頂に達した。

当時の写真。場所がはっきりしない。

北穂高岳山頂には各ルートから登って来た人で混んでいた。
ブロックを築いたテント場跡で大休止する。
3,000mの展望台は最高である。
ドーム北壁を登るクライマーを見ながら涸沢岳へ。
涸沢側や滝谷側を巻きながら登る。
落石は許されない。
この間はキレットより悪く感じた。
涸沢岳から白出のコルは直ぐだった。
いつもながらコルからは人多く、奥穂の岩場は順番待ちである。

今日はコル泊りで明日西穂高岳であったが、天気は下り坂である。
二日前のような吹雪ではビバークにも自信はない。
なら今日中に奥穂とも考えてが、順番待ちが長そうだった。
残念だが一旦涸沢まで下って、明日の行動は考えよう。

ザイテングラードから高度差700mを尻セードで一気に下る。
登り2∼3時間かかるのを35分で下った。
涸沢ヒュッテに泊まることにした。
小屋には転落者が収容されていた。
部屋は槍ヶ岳山荘とは比較にならなかった。
綺麗でストーブもついていた。
しかし狭い布団に二人には参った。

4日同郷のN登高会遭難。

予想に反して天気は昼までは持ちそう。
西穂高岳は諦め北尾根から前穂高岳を目指そうと小屋を出た。
小屋を出たところで同じ会(職域山岳部)の面々と会った。
奥穂行きに合流し再び白出のコルに登った。
岩場登りで順番待ちしていると山岳救助隊員から我々のヘルメット名称を見て遭難したN登高会からの伝言を伝えてきた。
同会メンバーは救助のため飛騨側に下るので涸沢に張っているテントを撤収してくれとの伝言である。
同会メンバーが滑落したと聞き驚き、我々も救助にと連絡を取るが数は間に合っているからテントを頼むと要請があった。

この時点で我々の計画は中止し涸沢に下った。
同会のテントを撤収し、涸沢ヒュッテに預け横尾に下った。
横尾で職域山岳部のテント撤収が終わる頃雨が降り出し、上高地に着く頃は土砂降りとなった。

槍ヶ岳から西穂高岳までの縦走は叶わなかったものの、
大キレットを踏破し北穂高岳に立ち白出のコルまでは縦走できた。
厳しい吹雪、停滞も経験し充実した山行でもあったが、
同郷のN登高会の遭難死亡事故は帰路を重苦しいものにした。
山で死んだらいけない。




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