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正直であるためには、誰と一緒にいるかが大事だよねという話。

年が明けて、毎年同様に「やりたいこと」の目標はたてられないのだけど、「どうありたいか」を考えたら、俄然「正直でありたいな」と思った。


自分も正直でありたいし、正直な人がすきなんだけど、それはどんな人のことかというと、単にウソをつかないとか隠しごとをしないというだけではなく、思ったことを全部口にしてしまう人のことでもない。

正直な人とは、自分の感情、欲望、知と無知を過不足なく捉えていて、他人にどう思われるかどうかで自分の考えや振る舞いが変わらない人のことだ。



正直であるためには、他人の視点や評価に左右されず自分の軸をしっかりもってブレないことが大事だけど、「わたしの軸はここで変わらないから、あなたが合わせてね」と自分勝手なわがままを通して周りをコントロールしようとすることではない。

正直とわがままはどうちがうのか。

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正直とわがままについて考えていたら、『永い言い訳』のラストシーンの印象深い言葉を思い出した。

「人生は他者だ」

西川美和『永い言い訳』より


西川さんはこの作品についてのインタビューで、「この物語は“人生は自分だ”と思っていた人間が、“人生は他者である”ということに気付いていく物語だ」と話していた。

自分の軸がしっかりとあるが、自我が強く固いがために他人を見下したり、自分の都合でコントロールしようとするのは、「自分はこうである」と自己完結してしまうからなのではないか。

「自分はこう」「この人はこう」「世界はこう」と自己完結することで、視野が凝り固まり、自分の枠にはまらないものを否定して排除し、相手や環境をコントロールする。それは“正直”ではなく“わがまま”だ。

正直とわがままのちがいは、「自分のため」だけではなく「相手のため」という他者を思いやる視点があるかどうかなのかもしれない。


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とはいえ、もちろん人生の主人公は自分だ。それに、自分を変えたくてもなかなか根本は変わらないことを歳を重ねるたびに実感する。

でも、誰かと一緒にいることであたらしい自分が引き出されることは、何歳になってもある。置かれた場所や立場によってその都度ちがう自分がいる。

ある人の前ではしっかり者で頼りがいのある自分になったり、ある人の前では萎縮して無口になったり、ある人の前ではリラックスしてぼんやりできたりする。


平野啓一郎さんの『私とは何か 「個人」から「分人」へ』でもこう書かれていた。

自分は、誰と過ごす時間を多く持つべきか?誰と一緒にいる時の自分を、今の自分の基礎にすべきか?
愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。


自分は他者によって引き出されるものなら、相手が誰でも自分を固く曲げずにわがままを通すのではなくて、自分の感情や考えを出しても大丈夫だ、受け入れてもらえると安心できる相手や場所を探すことが大事なのだと思う。


誰と一緒にいたいか考えるとき、仕事でも恋愛でも友達でも、好き嫌いではなくて「自分が正直でいられるか」で決めるのはとてもよい方法なのだろうな。


逆にいうと、お互いに正直でいられない関係性からは離れたほうがいい。正直さは相手の正直を引き出すし、逆もまた然りなので。どちらかが悪いとかではなく、偽りや不安があると相手にもそれは伝わり、お互いに固くなってしまう悪循環に陥ってしまう。

(距離が離れていればお互いに本音を知る必要もないし、別にわかりあわなくても上手く付き合えるという冷たさでもある)


自分が正直でいるためには「この人の前では正直でありたい」と思える他者が必要だ。

わたしが今年すべきことは「正直でいられる人と一緒にいること」だな。


noteに文章を書くときも正直でありたいと思うので、正直な時間を増やすためにも、今年もたくさん書けるといいな。今年もよろしくおねがいします!


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