無題_1_のコピー

食べものと言葉でのこしたいもの

あーちんはひとと食べものをセットでおぼえている。

彼女が2歳のときに友人と行った沖縄で、暑くて汗をたくさんかいて、話し声も聞こえないくらい蝉がジャンジャンと鳴くなかで食べた塩せんべいをあーちんはとても気に入って、朝起きたらひとりでちびちびと食べていた。その時の友人のことは今でも「いっしょに塩せんべいを食べたよね」とおぼえている。

先日、昨年の初夏に亡くなったともだちのトンの話になったときも、たこ焼きを山ほど焼いて食べたこと、わたしがつくったトマトソースのペンネのこと、お花見に持っていったスパムおむすびのこと、神宮の花火大会でトンがいつもの白波(芋焼酎)を持参して(あーちんはコーラ)飲んだこと、あーちんがつくったスクランブルエッグのこと、「えー」と言って選ばなかったガリガリ君のチョコチップ味をむりやり買って食べさせられたこと(すごくおいしかった)など、トンといっしょに食べたものがどんどん出てきた。


食べることがすきだと、それを誰かとわけあうとき、いっしょに食べたものとその時間はなによりの宝だ。時間という記憶に、味やかたちやにおいをのこしてくれる。

わたしが食べものの仕事をしていていちばんうれしいのは、他の店とくらべておいしいとか技術の評価ではなくて、だれかとだれかの思い出になれることだ。「いつかだれかがくれたお菓子」「だれかといっしょに食べたお菓子」というのは、つくった人の技術や質をこえて気持ちがのっかって記憶に残るのだと思っている。

わたしは日本人の「お菓子をあげる」という文化がほんとうに好きで、お菓子は「食べるもの」と同じくらい「あげるもの」なのだと思う。自分がおいしいと思った感動をだれかにわけてあげたいというのは、愛でしかない。


わたしが誰に頼まれたでもないこのnoteに文章を書くことも、わたしがこころが動いたことや経験を、考え方を、どこかのだれかにわけたいのかもしれない。


役に立たなくても、伝わらなくても、自分がこころを動かされた経験をあとにのこすことは、唯一だれにでもできる未来へのおくりものだと思う。


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