ありのままでは着れないニットに思うこと

気仙沼ニッティングの新作のお知らせをみて、目を見張った。

あまりにもすばらしいものやすきなものに出会ったとき、直視できずに目をそらしてしまうクセがあるのだけれど、このニットの写真に対してもそうだった。サッとみて、目をそらし、チラッとみて、深呼吸して、すこし長くみて、と、くりかえした。

その感じは、対象がもののときもあるし、顔、才能、センス、場所、ことばのときもある。羨望や、嫉妬や、恋や、恐怖などの、そういうなにかが、瞬時に過剰に放出されて、目が追いつかないのだと思う。あこがれの氾濫に動揺しているのだ。


わたしは特におしゃれでもないし、服や装飾品に頓着がないのに、どうしてこのニットにそんなにも心を惹かれたのかというと、ニットの色やかたちがドストライクに好みだったのに加えて、そこにかけたたくさんの時間やひとの思いが、目に見えたのだと思う。ニットのことなど何も知らないけれど、なぜか伝わった。

価格やブランドではない(それはどうやっても前後についてくるものだけれど)質の良さというのは、過程に詰まっていて、それは商品の形だけをマネしても決して奪えないものなのだと思う。

そしてもうひとつ、目をそらすほど好きなこのニットをみて「じぶんのものではない」ということも瞬時にわかった。

それを買える金額を持っているとしても、それ単体で手に入れたとしても、自分の今とはつり合わない。服としてみても、このニットに合わせるにふさわしいものやセンスを今は持ち合わせていないし、生活の一部としても、取り扱う細やかさや時間の使いかたが、わたしには足りない。

「こんなニットが似合う女性になりたいな」と思うと同時に、似合わなさや足りなさに、ついため息がでた。ただ、卑屈になっているのではなくて、そのあこがれと現地点の差を実感できたことは、むしろうれしいとさえ思った。


人間関係でもまったく同じことがある。

すごくステキだと思ってあこがれる人に会ったとき、それが一方的の場合、相手がわたしに用がないとき、それはイヤっていうほどわかるし、話すことがない。うっかり会えたことに無理をしてしがみついても、バランスがわるいからどこかで振り落とされてしまう。

そのとき、振り落とされたことに相手を恨んだり、傷ついて落ち込んだりするのはなにかちがう。そもそも無理があったのだから、しかたがないことなのだと思う。そういう、マンツーマンでの相性や好き嫌いだけではないものがあるのだと、おとなになってから(というかごく最近)わかってきた。

この歳になって遅いかもしれないけれど、最近「自分がありのままにしたいことだけしていたら、自分の望む人やものが寄ってくる」とは思えなくなってきた。

もともとやりたいことがなくて目標をたてられない性分なので、自分の行き先を決めるというクセがついていないのだけど、せっかくステキなものや人に出会ったときに、全部あきらめて、そのことで自分の価値を自分で下げ続けるのはもったいないなと思うようになった。

「世界がちがうから」と拗ねてあきらめるのではなくて、憧れているままでいたいのか、そこまで行きたいのか、考える。自分とは前後の脈略がまったくないものであれば「見ているだけにしよう」と思うし、足りないものが明確に見えて、それがほしいものならば「努力してそこまで行こう」と思う。

目標も、自分の価値の可能性も、自分でつくりだすものではなくて、そうやってまわりの人やものが持ってきてくれるのだと思う。それではじめて見ている方向に進みだせるのかもしれないなと。

「あれもこれもほしい」と飛び石でみえているものをほしがるよりも、自分のすすんできた道のつづきに持ってこれるものだけを決めたらいい。そうやってすすんだ道が、ニット同様に、その過程が自分の価値で、質となるのだと思う。

その道の途中である今、まわりになにがあって誰がいるかよく見ると、そこで目が合うものや人はすぐにわかる。それは、だれにもマネはできないし奪われないので安心する。


あのニットやあの人に「そこに行くから待っててね!」という思いをもって、今できるのはそこへ続く過程をつくることなので、それをめいっぱい楽しもうと思う。

待っててね!



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