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ポケモン越しの景色(山手通りも海になる)

ポケモンGOに関する意見や情報があふれて、社会現象ってこういうことかと実感している。

こういったみんなが耳にする情報について、賛否両論いろんな意見が飛び交うときにいつも思うのは、なにかに対して不安に思ったり怒ったりするひとは、ほんとうは全くちがうことに不安だったり怒ったりしている。対象はなんでもよくて、たぶんすり替えている意識もなくて、正しい気持ちをもって怒っている。

ポケモンGOにほんとうに怒っている人などきっといない。なにか別の、もっとおおきな不安や不満を抱えている。

いや、そんなにおおきな問題ではなくても、例えばわたしは歩きスマホはきらいだけれど、その理由は、電車の乗り降り時や階段などで、スマホを見ながらだととにかく動きがおそくなるので、せっかちなわたしはぶつかってしまう。ぶつかるのは、歩きスマホのせいというより、どちらかというとわたしのせっかちさが原因だ。このことでイライラするのは自分の性格のせいなので、ポケモンGOについてみんなが意見を言っているのに紛れて「歩きスマホあぶない!」と言うのは、おや、そうだっけ?と思う。


不満だけではなくて、楽しみかたや興味の持ちかたにも個人の性格がよくでるので、おもしろく見ている。

たとえば、わたしの娘あーちんは、ゲームそのものよりも情報やうんちくがすきで、ゲームをしている人にそれを教えてあげたりすることでよろこんでいる。件のポケモンも、わたしが知識なくなんとなく集めたポケモンや道具についてくわしく教えてくれたり、管理してくれたり、なにやら育てたりしてくれる。「自分でやったら?」というと、それは別にやらなくていいのだという。わたしのお世話ができたらそれでいいのだと。これはかなりあーちんらしいなと思う。(飽きっぽくてきとうなわたしらしくもある)


ついでにポケモンGOで思い出したことを書いておこう。

あーちんが小さいころからふたりでよくやっていた遊びがある。わたしとあーちんはとにかくよく歩く。電車が苦手なのもあって、歩ける距離なら(1時間くらい)歩いてしまう。そうして歩きながらうまれた遊びは「ここは海」。

「ここは海」では、車や人を海の生き物にする。山手通りを歩いていて、おおきな黒いワゴンが来ると「クジラきたよ」青いスポーツカータイプがくると「サメきたよ。目がこわい」などと見つけては言い合う。どんどん車が生きものに、ライトが顔に見えてくる。赤い原付に乗った背中の丸いおじいちゃんが通ったときはふたり声を合わせて「エビ!!」と言って爆笑し、通行人を振り向かせた。車を指差して大笑いされたら気分が悪い人もいるかもしれないけれど、あれはたのしかった。(動物版の「ここはジャングル」もある)


道をあるきながら遊ぶのは、スマホがあってもなくてもおもしろい。スマホがあってもなくてもあぶない。スマホがあってもなくても人による。

結局、ポケモンGOのことどう思うかときかれたら「どうでもいい」のだ。そこに問題を見いだそうと、楽しみを見いだそうと、ポケモンに限ったことではない。これは何に対しても同じで、世界をみるじぶんの目がなにを見るかは、自分の意思や加減による。コントロールしないと、なにを見ても、じぶんのなかの問題がすべてのものに映し出されて見えてしまう。世界は問題だらけに見えてしまう。

世界をきびしい茨の道とするか、たのしい公園とするか、ひとを戦うべき敵とするか、共存する仲間とするか、ぜんぶ自分次第でかわってくる。

わたしがこどもにできるのは、目の前になにがあらわれても、それをどう見るかの傾向やクセをつけてあげることだと思うし、親からの影響のほとんどはそこ(世界の見方による価値観)にあると思っている。わたしは、世界はすてたもんじゃないよ、けっこうたのしいよと見てほしい。

それが共有できたら、山手通りが海に見えるように、世界はたのしいものに見えると信じている。


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