自分を知るとか、知らないとか

週末の朝、いつも向かいのマンションからサックスの音が聴こえる。

今朝も、登校するあーちんを見送ったあとで、まだぼんやりする頭と肌寒さに再度布団を体に巻きつけうとうとしていたら、いつもの音が聴こえてきた。音楽は奏でずに音を出す練習だけで、プァーとかパパパーというその音は、家の中と空が馴染み、夢と現実のあいだのようで、なんとも心地よかった。

布団にくるまって目をつぶりその音を聴いていたら、あ、と突然わかったことがある。ああ、わたし、これをやらないとダメだわ、と。



以前、会話をしているといつも「あー、それ知ってる」と言って途中で遮る人がいた。

彼は共感のつもりだったかもしれないし、プライドが高くて知らないことが嫌だったのかもしれない。どちらにしても単なるクセで意味はなかったのだろうけれど、何回目かの「それ知ってる」に対して、「あ、まただ」と思ったわたしは、たまらず「ううん、あなたは知らないよ」と言い返してしまった。

案の定彼はキョトンとして、わたしはすぐに「ごめん」と言い、事なきを得たけれど、まだ伝えている途中で(ネタならともかく)「知っている」と言われて、イラっとしたのと、悲しかったのを覚えている。

知っているわけがないのだ、まだ言ってないのだから。でも彼はいつもそうやって悪気なく自分のひきだしの中から似たものを取り出して「知っている」と処理をしていた。


自分が「知っている」か「知らない」かは、理解度とは関係ないところで、自分自身が決めてしまうものなのだ。

「もう知っている」とすると、その途端にそれ以上知ることができない。逆にいうと、どれだけ理解していても「まだ知らないことがある」と思っていると、その先でさらに新しい発見ができる。



ここ最近、やりたいことがあるとかないとかについて考えることが多かったのだけど、どこから考えても、誰と話しても、結局は「自分のことを知る必要がある」という結論にたどり着く。

「自分を過不足なく知って、言葉にすること」の大切さとむずかしさを実感しているし、それをいちばん妨げるのは「もう知っている」という思い込みだということもわかった。

わかっていたはずなのに、わたしはまさにその「知っている」という妨げの柵を立てていたらしい。「自分のことはよく知っている」と思っていたけれど、本当はしたいこと、ずっとしたかったけどできないと思っていることがまだあって、今朝それを見つけられた。(すること自体は大したことじゃないので省く)



わたしは、おおげさに言うと、死んだときに、天国の入口で担当者(おそらく温水さんのような)に「あなたは、この世でなにをしましたか」と訊かれたときに、「わたしはこれをしました」と胸をはって言いたい。

それは、職業の分類や仕事の内容ではなくて、自分の役割や立ち位置の話で、自分にとってそれは何だろう、とずっと考えてきた。

今、わたしは自分の役割について、まだ「知っている」には遠いけれど、それでも少しずつ見えてきたので、その「役割」と「自分の行動」の差を埋めていきたい。埋めるためにするべきことが、今朝ふとわかって、またひとつ自分の役割に近づけたようでとてもうれしい。


世界は知らないことばかりだし、これからも知らない自分が出てくるのだろう。あのサックスの音はどんな人が出していて、どんな曲を奏でるために練習しているのかも、わたしはまだ知らない。


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