見出し画像

こどもの自殺について、わたしがあーちんに話したこと

「9月1日は18歳以下のこどもの自殺の数がいちばん多い」というニュースを、毎年夏休みの終わりに目にする。

自殺について、いじめについては、気軽に書くものではないとは思うのだけれど、わたしが自分のこども(あーちん)に今まで話してきたことを、ちょっと書き残しておこうと思う。ある親子の会話の記録として。



家にテレビがあって、夕方のニュースをこどももいっしょに観ているというシーンはよくある。そして、こどもは案外それをよく観ている。

こどものころ、テレビのニュースというのは「絶対に正しいこと」だと思っていた。同時に、「おとなの世界」の出来事であり、自分とはなにひとつ関係がないと思っていた。自分と同じ歳くらいのこどもの事故や事件の話題にも、そんなことが起こる可能性があるということを、いまいち想像ができなかった。

ただ、こどもの自殺のニュースだけは別だった。自殺をする想像をしたことがあるこどもにとって、そのニュースは、想像が現実につながる情報だった。

おとなになった今なら、こどものころ自殺をする想像だけならしたことがある という人はたくさんいて、そのうちのごくごく一部のこどもが実際に行動してしまったのだとわかる。だけど、それを知らないこどもにとっては、ニュースで自殺したこどもを見て「じぶんの仲間がいたんだ」と思ってしまいかねない。


自分にこどもができてから、こどもの自殺のニュースを観たときに、その感覚を思い出した。そして、親のわたしにできることはなんだろうと考えた。

ニュースを見せないことではなく、心配して観察するだけでもなくて、こどもに直接してあげられることを考えて、話をした。


こどもにとって学校は、世界だ。でも、ほんとうはそうではない。たまたま集まった数十人の関わりが、どれだけちいさなせまい世界か。おとなになると、自分ですきなだけ世界をひろげられる。世界を自分でつくれるし、決められる。そのことを知らずに、せまい世界で完結することはもったない。

と、まずは、こどもの視野のせまさと、世界のひろさについて話した。

視野がせまくなっているとき、おおきな視界をもつことは難しい。だけど、せまい視野で考えることにろくなことはない。だいたいまちがっていると言い切った。みえている視野の範囲でしか行動できないのだから、無理に行動するまえに、視野をひろげるのが大事だと言った。


自分が世界に合わないのではない、そもそもそこは世界じゃない。逃げ場も遊び場もいくらでもある。

今いる場所を見つめ続けていないで、外の世界に思いを馳せて、憧れて、今できることはなにか考えた方がいい。こども同士が苦しければ、どんなおとなになりたいか、今からそれに向けてできることをしたらいい。

「いやだ」のその先に見せるものを、親のわたしが用意してあげたいと思った。

それから、だれかに向けた復讐という手段で自殺を選ぶというケースがあるが、それは相手にとって命をかけた最大級のいじめだという理不尽さを伝えた。それはものすごくかっこ悪いことだと。どんなにつらくてかわいそうだとしても、わたしは、かっこ悪いと思う と言い切った。


あーちんは学校がイヤだと言うことはなかったけれど、小学校では友達があまりできなかった。だから、自殺云々に関わらず、いつもこういった類いの話をしていた。要は、おとなに憧れてほしかった。「自殺」の真逆にあるものは「おとなになりたい(もっと生きたい)」だと思ったからだ。

そして、いちばん身近なおとなであるわたしが楽しくあることが、「おとなになると楽しいよ!」というのにいちばん説得力があるので、まずはわたしが視野をひろげて、世界をひろげようと思った。

結局おまえの話かよ、と思うかもしれないけれど、早い話がそうなんだと思う。わたしができることは、自分のことだけだ。こどもに限らず、相手のために何かできると思うことが傲慢なのだと。

おとながこどもの目線に合わせて世界をせまくしていると(こどもの人間関係をぜんぶ把握して、親同士が自分のことのように話をしているのをよく見かける)、一見寄り添っているようで、じつは逃げ場をなくしているように思う。だから、わたしはわたしの世界を見せることで、こどものせまい視野から視線をずらしたかった。



ひとりでも多くのこどもたちが、世界のひろさに気がつきますように。


\読んでくれてありがとうございます!/ みなさんのサポートはとても励みになっています。