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川上未映子×新海誠に思い知った先の「わたしはネクラの希望の星になりたい」という話

昨夜「SWITCHインタビュー 達人達(Eテレ)」で、川上未映子さんと新海誠さんの対談を観た。

おふたりとも、10歳くらいでみていた世界(いちばん解像度が高い時期と称していた)をとても大事にされているようだった。川上さんの死への恐怖、新海さんの寒さと光の感覚、「あのときのあの感じ」を持ち続けている。川上さんは実際に、「書くときにそのころのレンズがシャキンと入る」とお話ししていた。

ものをつくるひとは誰に向けてつくっているのか、というのはいつも興味があって疑問だったのだけれど、対談の中で新海さんはその対象を「しいて言えば過去の自分」と言い、「まだ会っていない人の中に、すごい大事な人がいるかもしれない」「そういう人が未来にいるっていうことを、つよく信じてもいいのかなって」「ぼくは、いたから」と仰っていた。


ああ すばらしいな、と思うと同時に、じぶんの10歳の頃を思い出して、すこし苦しかった。

10歳のころにもともともっていた素質(キャラクター)と、それに対応するためにあとからできたもの(パーソナリティ)があるとしたら、わたしのキャラクターには前述のおふたりと共鳴する部分はなく、その「ちがう」ということをきっかけに、当時の自分を思い出させた。


こどものころの川上さんが、自分の目に見えるものやあたまのなかで考えることに敏感で、繊細につかまえていたのに対して、わたしはいつも他人のこころのなかをつかまえていたことを思い出した。ひとの目を気にするということではなく、「わたしはこう思う」よりも「どうしてこのひとはこう思うのだろう」に対象があった。なぜかはわからないけれど、そのころのわたしの目のレンズに、じぶんの視点があまりのこっていない。よくいえば客観視、または空中に浮いていた。

また、新海さんの「大事なひとに会えると信じていい」という言葉に、泣きそうになった。それは「そのとおりだ」という感動ではなく、わたしは長い間ずっと「大事なひとにはきっと会えないけど、自分となかよくしていけば大丈夫だ」と信じてパーソナリティを保ってきたからだ。「どうせいない」とひねくれているのではなく、ほんとうにそう信じていた。

大げさにいうと、じぶんの「死」も「不足」も知っていた。恐怖や落胆ではなく、そのころから受け入れていたのだと思う。しかたないから、どうやっていこうかな と考えていた。

わたしのキャラクターの部分はだいぶネクラだと知ってはいたけれど、改めて暗いなと思って、笑ってしまった。

だけど、わたしはそのキャラクターを壊さないままで、なおかつありのままではなく、世界の見方や考え方でつくってきたパーソナリティによって、今のところしあわせだから、希望の星になれると思っている。

「もともと持っていなくても、こう考えればできるよ」とか、「もともとそれを持っているなら、裏返したらこうなるよ」とか、誰かにそういうことを教えてあげたいのだと思う。

そして、それはやっぱりこどものころの自分にいちばん教えてあげたいかもしれないな。



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