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「どうして書きはじめたんですか?」と聞かれて考えたこと。

先日、「どうして書きはじめたんですか?」と聞かれて、noteに書きはじめたときのことを思い出してみた。

2年半前に書き出すまで、mixiやFacebookで友達に向けた近況報告くらいでしか文章を書くことはなかったし、ネット上で読むのも芸能人のブログをのぞく程度だったので、書きはじめたときは自分が何を書いているのかよくわからなかった。これはブログなの?記事って何?エッセイとコラムのちがいって何?という疑問すらしばらくはわかないくらいだった。

19歳から洋菓子業界(企業ではなく個人店)にいて、自分以外のほとんどの人にとって仕事は「作業」がすべてだった。わたしはその中で仕組みを作ったり整えたりしてきたのだけど、職人の業界では言葉はとても非力で、何かを伝えようと書くメールも読んでもらえない(手が止まるから)くらいだったので、文章を書いたり言語化してよろこばれた経験はほとんどなかった。だから、文章を書くのが好きだとか得意だとか思ったこともなかった。


文章を書く意味がわからないまま一体何がしたかったのかというと、「いつも自己紹介がうまくできないから、一度自分のしてきたことを書き出して眺めてみたい」というのが一番の動機だった。誰かが読むかどうかはあまり関係なかった。


そもそも「自分のしてきたことを書き出したい」というのは「仕事をしてきたけど、その最中は自分が何をしているのかよくわかっていなかった」ということだ。

知性がなくてはずかしいけど、振りかえるといつもそうだった。


10代後半に父が倒れて、すぐに働かないといけない状況になったので、「どんな仕事をしたいか」「仕事とは何か」と立ち止まって考える時間がなかった。社会に出たとき、わたしにとっての「仕事」は、目の前にある自分でもできることをしてお金をもらっていただけだった。

23歳で結婚したときも、子供ができて「よし、じゃあ産むわ」と決めただけで、「どんな結婚がしたいか」「結婚とは何か」と考えたことはなかった。(結果、すぐに離婚した。そりゃそうだ)

会社をやめて独立したときも、「このままだとお金と時間が足りないから、自分でやるしかないか」と、自分のできることからやることを決めただけで、目的や意味などまったく考えていなかった。

我ながらバカなのかな?と思うけど、これが性分なのかもしれない。

それと同様に、noteに文章を書きはじめたときも、書き出したいだけで、そのときは自分が何をしたいのかはわからなかったのだ。

しかし、一度書き出してみたら、自分のしてきたことや思っていたことを言葉にする過程で自分へインタビューをするように感情を掘り、その結果「ああ、わたし、そうだったんだ」とわかったことがたくさんある。書くことで、仕事に対しても子供に対しても、自分が何を大事にしてきたのかが浮き彫りになった。

目的はなく自分のための棚卸のような文章だったものの、正直に書いていたので、それがだれかに届いたときに、面白がってくれたり、共感してくれたりした。それがうれしくて、誰かが読む前提で書いてみるようになったし、誰にどうやって届けるかを考えるようにもなった。

noteに書いたことでわたしの自己紹介は済んでいるから、おもしろいと思ってくれた人と会うと気があってすぐに友達になれた。今となるとそのたくさんの友達がいちばんの成果だったけど、友達をつくろうとして書きはじめていたらこんなふうにならなかったような気がする。


「文章を通して価値のある情報を伝える」のではない場合、よくわからなくてもとにかく出してみると、意味や価値はあとからついてくる。文章に価値があるのではなくて、出すことができたその場所に価値があるのだと思う。

そう思っているので、Dr.ゆうすけとの有料マガジン『月刊 自己肯定感』をはじめるときも、「わたしたちの文章に課金する価値があると思うと、提供し続けるのがしんどいから、文章にお金をもらっているんじゃなくて、わたしたちが素直に書いて出せる場所をつくって、そこへの入場料をもらってると思うことにしよう」と言った。わたしたちは安心して全力でその場所に甘えよう。そうすることで、読者のひとたちにとっても居場所になれると信じてやってみている。


「どうして書きはじめたのか?」「どうして独立したのか?」「どうしてお店をはじめたのか?」という問いに対して、今なら「こうかな?」と答えることもできるけど、それは振り返ってわかることで、ぜんぶその過程ではわからないことばかりだった。

意味とか目的とかが見えなくても、はじめてみると、価値はあとからついてくる。しかも、それはだいたい自分以外の誰かがみつけてくれる。だから、なんでもやってみたらいい。まちがったらいつでもやめればいい。

わたしも今までは目の前のことをただやってきたけど、これからは「これをやろう」とちゃんと自分で決めてやってみよう、とようやく思えるようになってきた。そう思えるまでに、「やってみる→あとからわかる」を何パターンも繰り返してきたので、人生2周目感が非常にあってとてもよい。

相変わらずやる意味などわからないけど、きっとまた周りの誰かが価値をつけてくれるから、わたしはそれを花束のように集めていこうと思う。



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