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世界をつくり、居場所になる。−−『この世界の片隅に』を観て

映画『この世界の片隅に』を観て数日が経つのだけど、未だ反芻している。すずさんが頭のなかにいる。

解釈や感想を書くのは苦手だし、なにを書いているかわからなくなるのだけど、ちょっと書き残しておこう。


まず、すずさんの絵を描くちから、想像力、やさしさ、そういうひとりのひととしての性質や才能の話として観た。

時代背景というのはあとから振りかえってついてくるもので、その当事者たちには知ったことはない。じぶんが今どの時代を生きているか、その先に何が待っているか、最中にはわからない。そこにあるのは、ただ、人と、暮らしだ。「戦争中の日常を切り取った」のではなく、どんなときでも日常しかない。


たくさんの絵を描く場面からは、才能というのは、他者と比べてできるとかできないとかいうことではなく、他者に見せるための自己表現でもなく、「やりたいこと」でもない。そのひとそのものから湧き出てくるものであり、だれかをよろこばせる手段であり、なによりそうせずにいられないものなのだと思った。

そして彼女は、頭のなかの想像を、右手から外に出して絵に描く。

「目に見えているもの」と「見たいもの」は、「現実」と「想像」のふたつにわかれるのではない。あたまのなかにある「見たいもの」を外に出すと、それが世界になる。

すずさんは常にそれをしていた。厳しくつらい現実と、がまんするために逃げ込む想像ではなく、彼女に見えていた世界は、ほんとうにカラフルでポップでユーモアにあふれていたのだろう。爆撃や食料不足の日常が、つらくかわいそうなものかどうかは、同じ状況でも、人によるのだ。(その一方では、自分のみる世界を崩される絶望もまた描かれていた)

そういう「あたりまえ」をあらためて受けとった。



そして「居場所」という大きなテーマを観た。
登場人物がそれぞれに居場所を選んでいく。決めていく。

物語の終盤に、すずの義理の姉が「居場所はここでもええし、どこでもええ。自分で決め」と言った台詞がこころに残っている。


現代では、まず情報があり、その幅を拡げたり隙間を探したりして居場所をみつけることが多い。先を見て、未来を見据えて居場所をつくる。わたしも、自分の居場所を思うとき、今いる場所(現状)と、まだ見ぬ誰かやどこか(未来)を想像する。もっと先に進むことや理想をみる。それは、ほんとうに他人との比較や憧れではないと言えるだろうか。

たとえばTwitterで、知らない誰かがどこでなにをしているか知っている。成功したり失敗したり、笑ったり泣いたり、何千何万通りもの人生を垣間みて、自分以外の人生を観察するだけでも1日終えることができる。きっと一生も同じだ。自分に向き合わずにいられる。


他人の情報の量がものすごく少ない彼女たちが生きた時代には、自分の居場所を自分で決めるということは、選択の幅をひろげて選ぶことではなく、まず自分の今を受け入れて、目の前のことを見つめることだったのだろう。自分と真っ正面から向き合わなくてはいけなかったのだろう。それが生死をもわける選択になるとしても、向き合うのは「今」しかない。

そして、自分と向き合うことで、他者を受け入れられる。そして他者もが「自分」になる。

自分の入るスペースをつくるのではなくて、自分自身がだれかの居場所になる。そこにいると決めると、目の前の誰かが自分の居場所になる。居場所とは「人」なのだ。



いつも自分のことばかり考えてきたわたしは、自分と向き合ってはきたものの、その先になにがあるのか見えなかったのだけど、この映画でスコンとわかったような気がした。


感想まで自分勝手な解釈で、自分でもちょっと笑うけれど、この映画をいま観ることができてとてもよかった。



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