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①自由のスパルタ教育《シングルマザーのサクちゃん家の子育て 》

子育てについてきかれたときにいつも「そればかりは、こどもと親の性質や組み合わせによるしねえ・・・」と、モニョモニョしてしまう。

わたしもひとりしか育てていないし、子育ての見本があったわけではないのだけれど、14年間を振り返って、わたしがなにを大事に子育てをしてきたのか、考えてみた。


こどもの年齢による細かな対応は、だれかの実体験から失敗談とか成功例とかを聞いて、共感したり勇気をもらったりするのだと思う。わたしもエッセイやマンガを読んでふむふむと参考にしたりしていた。

それとは別の、もうすこし大枠での「子育て」という意味で、どういう考え方をしてきたかというと、「こどもをこどもとして見ない」ということだ。

「こどもになにかを教える」という考えではなく、「おとなになるために教える」と思っている。


電車の中などでいろんなひとがいると、スーツのおじさんもおしゃれなおばさまも怒っているおじいさんもみんな、みんないつかはこどもだったんだよなあと思う。

おとなになってから会った、すてきでおもしろいひとたちも、じぶんが知ったときはすでに何者かですごい仕事をしているけれど、じぶんと同じように、同じ時間をかけて、こどもからおとなになったんだよなあ と思うと不思議で、どんなこどもだったんだろう、どんな親だったんだろうと話を聞きたくなる。


自分のこどもも、「こども」として見るのではなくて、いまは小さいけれど必ずおとなになるのだから、それを見据えて「どんなおとなになるのか」といつも見ている。

自分がこどもよりももっているものは「経験」で、もっていないものは「可能性」だ。

おとなになって、いろいろな職業の人に出会って、そのひとたちのこどものころからの話を聞くと、もちろんわたしが通ってこなかった道を進んできている。ああ、そんな道があるんだねえと知り、その道のこと、いつ知ったの?だれかが教えてくれたの?と思う。

振り返ってはじめて、自分がすすんできた道は、意思があって選んだものでもそうではなくても、ひとつしかないんだと知る。選んでいなくても、というのはこわいけれどほんとうにそうで、どう進んでも必ずひとつしかないのだ。

そのことを知ってるのは、わたしが37年間生きてきたからで、こどもにはわからない。

だから、わたしはこどもに教えてあげる。

時間は止まってくれないから、いやでも歳をとっておとなになるよ。

世界を見渡すといろんなおとながいるけれど、全員もともとはこどもだったし、どんなすごいひとでも時間は平等にながれていたんだよ。

そのおとなへの道をどこに向かって進むのか、誰かが決めてくれるのではなくて、自分で決めるんだよ。

と言い続けたい。


道の行き先を、親が誘導したり道を塞ぐようなこともあるかもれしれないけれど、その環境や親の考え方はそれぞれで、運みたいなものだから、他人のことはいいから、とにかくわが家ではそうなのだと言い切りたい。

わたしがしている子育ては、「自由」のスパルタ教育なのだと思う。

ひとのせいにしないで自分で決めるクセをつけないと、おとなになってから「え、どんなおとなになるか自分で決めないといけなかったの?知らなかった!」と思ってからでは遅いので、気の毒だ。

ただし、「自分で決める」というのは、自由だけれど、親のせいにできないし、それは「いくつかの道からの選択」の自由ではなく、常に荒野に立たされて道を自分でつくれと言われ続けるきびしさもある。まさにスパルタだと思う。


そしてそのきびしさは、親である自分へのブーメランでかえってくる。

わたし(いちばん身近なおとな)が、見本になるために、なにかのせいにしないで道をつくって進み続けなければいけない。

だけど、わたしはそんなにおおきな責任を果たせるほど立派な人間ではないし、他の家族に比べても協力メンバーが足りない。それはまずいので、そこは他人にまかせることにして、こどもをおもしろいおとなのいる環境にいれる努力をした。

それから、こどもに「なにかのせいにするな」と言うからには、こどもを「学力がないからできない」「お金がないからできない」という環境にしてはいけないという、自ら放った自由という名の最大のブーメランによるプレッシャーで、今日も学費をはらうために働くよ。


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