映画『永い言い訳』に、言い訳をする。

映画「永い言い訳」を観た。

人気作家の津村啓こと衣笠幸夫(きぬがささちお)は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。その時不倫相手と密会していた幸夫は、世間に対して悲劇の主人公を装うことしかできない。そんなある日、妻の親友の遺族―トラック運転手の夫・陽一とその子供たちに出会った幸夫は、ふとした思いつきから幼い彼らの世話を買って出る。保育園に通う灯(あかり)と、妹の世話のため中学受験を諦めようとしていた兄の真平。子供を持たない幸夫は、誰かのために生きる幸せを初めて知り、虚しかった毎日が輝き出すのだが・・・(公式サイトより)



観終わってすぐ、どうにも言葉にならなかった。だけど、この感覚をのこしておきたいと思うので、ちょっと書いてみる。



突然の妻の死に、じぶんの中で起こる感情を周りの反応から形作ろうとする幸夫と、爆発的に悲しむ陽一の対比に、喪失したあとの空白を思った。

くっきりと存在していたものがまるごとぽっかりとなくなったときの、その大きな穴にもくっきりと影が浮かびあがり絶望する陽一に対して、無には影がおちない。影をつけるために無のまわりに実体をつくりだす幸夫。


陽一のように「ある/ない」をはっきりとわけ、信じて疑わないつよさを持ち合わせていないわたしは、完全に幸夫に自分を照らし合わせていた。


15年前に父が亡くなって、いなくなったとき、そもそもそこに父はいたのか。ちゃんと存在していたのか。いなくならなければ、こんなにも彼の人生を想うことはあっただろうか。いなくなったあとで「愛されていたんだ」と思えるようになったけれど、映画の中の幸夫のように相手が自分を愛していなかったことを知ることがあったら、おおきな悲しみや怒りや後悔のなかで、安堵もするのだろうか。

昨年友人が亡くなって、「正直にありたい」とつよく思うようになった。彼に恥じないようにそうありたいと。

誤解を恐れずにいうと、彼らはいなくなってからのほうが色濃くわたしの中に生きている。それは、あとからつくったわたしの言い訳にすぎないのだと突きつけられた。


いつかどうせなくなるんだ、わかりあえないんだと思って、明暗や自他や生死を曖昧にしているわたしは、なくなったときの喪失感を恐れて、なくなる前にあらかじめぬるぬるとしたマーブル状にしているのかもしれない。

「自分を大事にしてくれる人を蔑ろにしてはいけない。そうじゃないと僕みたいになってしまうよ」という幸夫の台詞にギクリとした。

相手を信じることで他者はそこに存在するし、他者によって自分が浮かびあがるのだ。無に、自分を足して形作るのではなく、他者によって光も影もつくられるのなら、まずは相手を信じることなのだとほんとうに思う。


相手を信じるつよさをもつ陽一のおおきな悲しみは愛そのものだ。それでも、忘れていくために妻のさいごの留守電を消去する姿には「しかたがないんだ」と、前に進むために言い訳が必要だったようにみえた。

息子の真平が「(死んだのが)お母さんじゃなくてお父さんならよかった」と思ってしまったこと、「お父さんみたいになりたくない」と言ってしまったことに、幸夫が「いろいろ思うことはしかたがないんだ」と、彼の分まで言い訳をしてあげたのも、必要な言い訳だったと思う。


幸夫が終盤で「人生は他者だ」とつよく書きなぐるのは、まだつづく言い訳にも見えるし、自分がつくられていく再生にも見えた。

愚かで情けないまま変わらなくても、進むのには、さまざまな解釈や思いこみや思いやりや意思決定や行動が必要で、それはすべて言い訳でも、生きている限り進まないといけない とつよく思った。



書き終えてみると、これは映画のおすすめ文でも評論でもなく、ただのわたしの話だ。すきなように映画の解釈をすることで数千文字の言い訳をしている。

言い訳でもしないとやってられないくらい、この映画で心がうごいたのだ。


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