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ほしいのは、社会性より両想い

長所と短所は同じで、どこから見るか、その角度のちがいだけだと思う。

わたしの場合、せっかちでお節介なところが吉(長所)とでるのは、せっかちさは、スピードと、先回りする視点が求められるとき。お節介は、助けが必要な場面や、リーダーが不在でまとまらない、決められないときだ。

そして大凶とでたのは、2011年のことだった。

震災の前後で、優先順位が大きく変わり、その振り幅に自分自身が対応できていなかったのかもしれない。
あの時にでていた、強いクセのようなものは、それぞれの人が本来もっている大きな要素なんだろうな、と今になって振り返っても思う。
そして、わたしも多分に洩れず、正義感の量と方向性をコントロールできなかったのだと思う。

どうなっていたかというと、ひとことで言うと、仕事をしすぎた。

当時、某チョコレートショップで働いていたわたしは、すでにその年に退社が決まっていたため、それまでは新しい仕事を増やさずに引き継ぐこと、後のことを考えてデータを残すことに重点を置いていたのだけど、震災後、その基準軸は崩壊し、できることをすべてやろうとした。

その結果、社長からある手紙をうけとった。
それまでの12年間、注意されたことなどなかったので、面と向かって言えないくらいは言いづらいところを、意を決したのだろうし、本気で伝えたかったのだろうと思う。(まあでも思い出すと笑ってしまう。書面て。)

そこには、いくつかの事例をあげたあとで、こう書かれていた。

「お節介だと思います」「誰もそんなこと頼んではいません」「それは正義のつもりかもしれませんが、個人の考えであって、会社の考えではありません」

4年に一度しか泣かないわたしが、それを読んで、泣いた。
おどろきと、申し訳なさと、たぶんその裏には「わかってもらえなかった」という思いで、泣いた。


吉本隆明さんは「真贋」のなかで「毒がまわっている人の特徴は、なんでもやりすぎるということ」だと言っている。

まさに、当時のわたしは毒がまわっていたのだと思う。「自分の考えがいちばん大事だ」という正義感は、わたしの手足を突き動かすと同時に、同じ分だけ毒が全身にまわっていて、それをコントロールできなかったのだと思う。

5年経った今なら、あのときの自分に言える。
「正しいことや、真面目さだけが、信頼を得るわけではないよ」と。


しかしその毒は、もともと自分のなかにある善悪とも判断できないような、どうしようもなくもっているもので、その時ほどではないけれど、今でもよく顔を出す。

会社と、チームと、誰かと、完全に思いの大きさが同じということは、まずない。大人なら、それを承知のうえでバランスをとって進めないといけない。
わたしは、思いのサイズや方向性のバランスをとることはできるつもりなのだけれど、スピード感を合わせることがなかなかできない。歩調が合わないときに、待つことができない。

会社を、チームを、誰かを、置き去りにしてしまう。
宮城リョータ
の置き去りはかっこいいけど、わたしのそれは問題がある。

気がつくと周りを疲弊させていたり、振り返ると誰もついてきていなかったりする。ただの欠落であり、欠点だ。

そしてこれは、仕事だけじゃなくてすべてのことに言えるのだけど、自分のスピードやしたいことをガマンして相手に合わせることは、お互いに苦痛だと知っている。
ただそれは、距離感や頻度で調整していく方法を見つければいい。目が合う角度になるまで変化をつけたり、時間差をつけたりすればいい。


そんななか、このせっかちなスピード感に疲れてしまわず、むしろ加速して楽しめる人がいると、ものすごくうれしい。

そんな人にはなかなか出会うことができないけれど、今はもっていない社会性が身につくこと(奇跡)よりも、完全にフィットする両思いの相手がどこかにいる(奇跡)と、信じていてもいいですよね?(反省してないので、ふりだしに戻る)

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