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大げさに言うのならば、きっとそういうことなんだろう(仕事って)

みんな本当に悩んでる。悩みすぎだと思う。

特に仕事の悩みに関しては、どうやら「いま、ここじゃないどこかで、自分にぴったりな楽しい仕事」を探している人が多いように見える。
そんなもんあるかい、と思う。

やりたいことがあるなら、さっさと飛び込んでしまえばいい。

やってみるまでの時間は、やらない理由をさがすでも、やる理由をさがすでもなくて、どうやってやるか、を考える時間だけでじゅうぶんだ。やってみてちがったらやめればいい。

無責任かもしれないけれど、じゃあ、誰に対しての責任があるというのか。親?

「自分の行動は、だれかにとって、そんなに影響ねえよ」と思ったら楽だし、むしろ自分のやりたい気持ちに責任とったらいいよ、と思う。


「やりたいことがわかりません」というのもよく聞くけれど、「別に、ないなら、なくてもいいんじゃない?」と思う。

「やりたいこと」って、見つけるものではないし、誰かから受けとるものでもない。

おなかがすいていないのに、ムリヤリ食べることはない。
いつも満腹にしていると、空腹感を忘れて、何がおいしいかもわからなくて、食べても「これって、おいしいんですか?」って聞くようになってしまう。

「おいしい」「かわいい」「なにかやりたい」は、全部おなじように、他人が決めることじゃない。自分から出てくるものだ。
自分のなかの感覚を忘れて、食べログとかキナリノとかgreenzとか見て判断してたら、それがただの「選択」だということに気がつかなくなる。じぶんだけの感情とか感動とかのほうが大事に決まってる。

情報からやりたいことを選択しても、親の引いたレールどころか、自らの手でレールを引くようなものだ。せっかく大きな広場なのに。

そして「どんな仕事をしているか」っていうのは、少なくともわたしにとっては、そんなにたいしたことではない。
クッキー屋になりたくてクッキー屋をしているわけではないし、この先もまだまだいろんな仕事をするつもりだ。

それと同時に、どんな仕事をしようか、と考えるのは、生きている間、どんな時間の使い方をしようか、と考えるということだ。

いつか死んだときに、天国に行ったら神様のような(温水さんみたいな)ひとがいて、「生きていた間のレポートを書きなさい」と言われるとする。
その時に、何を書けるか。わたしはいつも想像している。

この世がどんなものだったか、その中でどんな役割をしたか。
どんなひとに出会って、どんな思い出をつくったか。
反省点はなにか、ハイライトはどこか。

わたしは、そのレポートに「楽しかった」と書きたい。
それだけでいいと言える。

生きているうちも、誰かと会って話をするとき、そのレポート(仮)を交換して見せ合うようなのがとても好きだ。

ちょっと大げさだけれど、それくらい視野を広げて、頭と感情をフル稼働させて、それに素直に行動したら、そんなに悩まないんじゃないかな、という話。


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