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SNSに会話は存在するか、メガネは顔の一部になってはいないか問題

わたしが個人的にSNS上でいちばん気をつけていることは、「書くことと自分が近くあること」だ。わたしがだれかと会って話すことと、SNSで書いていることの間に、なるべく差やちがいをつくらないようにしたいと思っている。

それはわたしが勝手にそうしたいというだけで、もちろんSNSだからできるキャラ設定や、SNSだからできる発言、SNSでは言えないことなどもあるだろう。ただ、わたしは書いていることと本人が同じ(近い)ひとがすきだ。

SNS上のキャラと実際に会って話す本人とのギャップが大きいひとと話すとき、両方とも本人なのはわかるのだけれど、そのひとがつくりたい(そう見られたい)自分というのがあるのだろうと思うと、会話をするのに多少戸惑う。

また、書くことと本人が同じ(近い)ひとは、書くことや言うことと行動も同じ(近い)傾向があるので、シンプルでわかりやすい。わたしは「思っていることと行動が近ければ近いほどしあわせだ」と思っているので、そのシンプルさをもっているひとといると、心地がいい。言葉と行動がねじれていたりこじれていたりする人は、言葉のまま受けとってもいいかどうかわからないので、話していて気をつかい、混乱してしまう。



最近SNS上でもうひとつ意識していることは、「じぶんの発言を受けた他人の意見や質問は、必ずしも(というかだいたいが)会話ではない」ということだ。

たとえばわたしが「わたしは不機嫌な人がきらいです」と書いたとき、それに対して「わたしもそう思います」もあれば「不機嫌も戦略です」「ではどうしろというのか」「むしろ機嫌がいいひとがきらいです」などの意見も出るとして(いわゆるクソリプ含む)、相手はわたしの発言に続けることで「会話」のつもりでぶつけてきたとしても、それはだいたい「会話」ではなく、「反射」や「反応」でしかない。


「わたしの発言=わたしの見ている景色」を観た、「そのひとの感想=そのひとのメガネをとおしてみた景色」ということなので、それを聞いてわたしが思うことは「このひとにはそう見えているんだな」だけだ。そこにわたしはいないので、会話だとは思わない。

「どうして不機嫌ではだめなのですか?」と質問の形式でも、わたしがどう思うのか知りたいという質問と、そうではなくて「じぶんにはちがう意見がある」ということを言いたい質問があり、相手が知らない人の場合、どちらかはわからない。


どんなに失礼な質問や怒りの意見も、わたしに向かって言っていても、だいたいもともとの怒りの矛先や見ている先(見たいもの)は、わたしではない。


聞きたくないから聞き流すのとはちがって、どれだけ聞いてもそれは自分とは関係ないことが多いので、「いろんなひとがいるんだな」と思い、そこがSNSのおもしろさであるとも思うけれど、結果的に聞き流す。

「ぜひ交換(会話)をしたい」というひとのことも見つけることができるし、そういう貴重な出会いがあるのもSNSならではだから、全部を一方通行だとは思わないけれど、双方向で全員と会話をしているわけではないと思っていないとやってられないよなと思う。


これが、インターネットからはなれても、目の前にいても会話が成り立たないことは多い。価値観の押しつけや、そのひとのメガネ越しの景色を世間の常識と思いこむ人もたくさんいる。そして自分もまた、なんかしらのメガネをかけている。

会話や質問は、そのひとのメガネのセンスそのものだと思っているので、お互いに交換したいひととだけ交換して、ぶつけたいだけの発言や押し付けてくるものは、受けとらずにヒョイと避けて、観察に留めようと思う。


いったい何が言いたくて書いているかというと、SNSの発言はキャラ設定が人によってちがうから全部をていねいに受けとらなくていいし、現実でも同じように、交換する相手は自分で選んでいいのだと思うよ ということと、

相手を変えようとしたり、見たいように勝手に見ているひとに合わせて、その期待に応えてあげるのは、やさしさではない。そこで傷つくのはムダだしきりがないから、勇気をもってスルーしていいと思うよ ということ。


なんだか最近、やさしいひとたちが、あれもこれも受けとりまくって傷ついているのを見ることが多いので、なんとなく書いてみた。

これもまたエアリプであり、クソリプでもあるよねって話。(この世は螺旋なのね)

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