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「できる」と「教える」の間にある「言語化すること」の大切さ

洋菓子店で働いていたとき、「できるようになること」と「ひとに教えられること」は別なんだなと知った。

腕のよい職人さんが必ずしも教えるのが上手なわけではなく、後輩を育てるために頑張って教えているものの苦労する姿をよく見かけた。

「オレの仕事を見て勝手に学べ」「何度も失敗して自分でコツをつかめ」というのは至極もっともでとても大事なことだけれど、とはいえ会社としてはスタッフが育たないと困るし、そう何度も失敗ばかりされていてはお客さんに影響が出てしまう。

「教える時間で自分でやった方が早いし、うまくできる」と、なんでも自分でやってしまう人もいたが、それは、後輩の成長のチャンスを奪っているにすぎない。

そこで、わたしは後輩に教える立場のスタッフにある提案をした。

できなかったときに怒るのはできるのだけど、怒られるだけでは萎縮してしまうので、「怒る」だけではなく「教える」をしてほしい。
やり方を教えるのはできるのだけど、「作業」を教えるだけではなく「めざすゴール」も教えてほしい。


具体的には、例えばマドレーヌの作り方を教えているとしたら、後輩が作ってできあがったものに対して、毎回点数をつけてあげるようにする。そして減点ポイントをちゃんと説明する。

お店で商品として出してよい合格ラインが70点以上だとすると、それまでは自分の作ったものが店頭で販売されていると「OKなんだな」ということしか伝わらなかったので、70点ギリギリなのにもう「ぼくはマドレーヌは作れるようになった」と思ってその後努力することをやめてしまったり、もっといいものを作りたいと思っていても、忙しい先輩に気をつかってそれ以上は教われなかったりした。

それでは伝言ゲームのようにひとりひとりの「できた」の基準がどんどん下がって、結果的に商品のレベルが下がっていることにも気がつかなくなってしまう。

「今日の出来上がりは75点で、あとこことここに気をつけて、こういう状態にできれば100点」と伝えることで、ひとりひとりのできるレベルがちがっても、誰が教えても、同じゴールを目指すことができる。


できるのが当たり前の人が、できない人に教えるときに必要になるのが「感覚や作業を言語化する」ということだ。

この「言語化する」ができるようになると、教える側もものすごく成長する。無意識でやっていた作業をふりかえって「どこに気をつければいいか」「うまくいくときはどんなときか」と改めて意識するようになる。「わからない人の視点になる」というのは、それだけで視野が広がり、発見や再認識できることがたくさんある。


わたしが何年も前に新人さんにある商品のリボンがけを教えるときに言ったことを、今でも覚えていて笑い話にされることがある。

「このリボンをきしめんだと思って、麺をねじってつぶさないように」「できあがりは、立体的ではなくて子供のときにはいてたパンツのお腹についてるリボンみたいに平らになるように」と言ったそうで、その後、後輩に教えるときに「きしめん」と「パンツのリボン」で伝えているらしい。ちゃんと伝わって何よりだわ。



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