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『ミライの授業』を読んで

つい先日、noteで「14歳の未来地図」というのを書いた。14歳のときに、未来のことを考える材料がもっとほしかった。今の14歳に向けてなにかできないだろうか、と。

その数日後、古賀史健さんのnoteで『ミライの授業』という本が発売されるという記事を読んで、鳥肌がたった。それはまさに14歳に向けてメッセージを送るという本だった。

早速、鼻息荒く買いに行き、読んだ。読んでいる間、わたしは14歳だった。


14歳のわたしには、未来は見えていなくて、今しかなかった。キラキラした時間ではなく、もわっと重たく湿気を帯びた、蒸しあつく息苦しい時間のなかにいた。それは、放課後の体育館のそれだった。

バスケットボール部だったわたしは、もともと運動ができて走るのも速く、持久力もあった。バスケをするのも楽しかった。ただ、顧問の先生が怒鳴るのがこわくて、常にビクビクと怯えていた。先生もそれを察知して、わたしにイライラしており、直接それをぶつけてきた。何をしても怒られた。「なんだその目は。大人を見透かすようで腹がたつ」「子供らしくなくてかわいくないな」とみんなの前で言われたりもした。

できることもできなくなり、萎縮して、怒られる前になぜかすでに泣いたりしていた。そしてある日、部活中に過呼吸になってしまった。先生に「うるさいから外に出ていろ」と言われ、体育館の外で横になり、息ができなくて苦しく、自分の喉がヒューヒューとホラー映画で恐れおののく叫び声のような音をあげ、せまくなった白い視界で見た横向きの校庭を、今でも鮮明におぼえている。部員の同級生には「休めていいね」と言われた。


今ならわかる。14歳は残酷だし、大人の対応はそのままこども同士に反映される。そしてまだ向き不向きや相性のせいにはできない。

それは、大人の言うことや態度を信じる素直さや、せまい世界のなかの優越で自信を持ったりなくしたりする心の柔らかさがあるからで、その要素を、そっくりそのまま「未来をつくる力」に向けることができたらどんなによかったか、と思う。


14歳にみえている「時間」は、今日も明日も永遠に体育館にいるようで、そこから離れる選択肢も方法も知らず、1年後すら見えていない。大人になることや、大人になったときの世界を自分たちでつくるということは、夢物語のようにしか思えない。

『ミライの授業』では、過去の人物の例をあげながら、ただただ未来を見せてくれる。14歳のあしもとに、過去からつづく道と、未来へ続く荒野をみせてくれる。


わたしの娘あーちんはちょうど今年14歳で、さっそくこの本を渡そうと思う。14歳でこの本に出会えることを心から羨ましく思うし、彼女が読んで何を思うか、とても楽しみだ。(ただ彼女に関しては、じぶんが大人になることを知っているように思うけれど、それはまた別の話)


この本を読みながら、わたしが14歳に向けて伝えたいと思っていたことは、もうこの本があればいいんじゃないのとも思ったし、この本を読んで、さらに伝えたいことがムクムクと膨らんできたようにも感じた。

14歳の自分をかわいそうとは思わないし、後悔もない。あのとき知っていたら と思うと同時に、おとなになった今、わたしはえらかったなと褒めてあげたいと思う。

未来をつくるのは今のこどもたちだけれど、未来をつくるとき、かつて自分の心がうごいた経験からしか生み出せないものもある。経験をもっているわたしたち大人が、こどもに何を話して何を残すかも、とても大きな役割を担っていると思う。わたしの14歳も、未来をつくることができるのだと。

そう思って読み終えたとき、さいごにこう書いてあった。


誰もがかつては14歳だった。自分の可能性をあきらめ、愚痴や不満ばかりこぼしている大人たちも、かつては14歳だった。わたしはきみに、そしてすべての「かつて14歳だった大人たち」にこの本を贈りたい。たとえ何歳であろうと、未来をあきらめることは許されないし、わたし自身が未来を信じているからだ。


14歳とはちがう涙がでた。わたしも未来を信じている。


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