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公開ラブレター

朝から5回くり返し読んだ吉本ばななさんのnoteに、いてもたってもいられず書きはじめている。

中学生のときにばななさんの本をはじめて読んでから、20年以上ばななさんの書いた文章を読み続けている。そのなかでも特別に、娘のあーちんを妊娠中にはじまった、ご自身のウェブサイトに掲載されていた日記がほんとうにもうだいすきで、すきすぎてすっかり他人の気がしないほどだった。

その日記は年に一度文庫になって出版されていたので、まとめて紙の本で読めるのもうれしかったのだけれど、数年前にサイトでの日記の掲載は終了してしまい、あのPCの画面で読む(まだスマホはなかった)独特なワクワクする感じを、なつかしく思っていた。

紙の本と電子書籍やウェブの文章のどちらがどうとかいう話ではなく、たとえば、職場についてiMacをたちあげ、仕事をはじめる前に朝読んでいたばななさんの日記は、その日いちにち誰も見ていないところで(単に部屋にひとりしかいなかったので)がんばっている自分を支えるものだったし、ばななさんの文章を読んだそのiMacは、仕事をするだけの機械ではなく、なんだかもっといいものになっていた。そんななかに、時間をとって向き合って読む小説とはまたちがううれしさがあった。


先日ばななさんがnoteで書きはじめたとき、それを読んで、なんとも言えない気持ちになった。

こどものころ、文集をつくるときに、自分の書いた文を先生がワープロで書きおこしてくれたものを見たときの、文章は同じなのにまったく別のもののような感じがした体験から、文字がもつ情報以上のなにか、目から入ってあたまや心に届くときの通路のようなもの、についてずっと不思議に思っていた。

わたしが8ヶ月間書いているこのnoteのフォントやページデザインの、まったく同じそれで書いたばななさんの文章を読んで、圧倒的な文章の力や文字から届くものの多さをガツンと感じとった。同じ文字なのに、スピードや口調や声の大きさややわらかさが、こんなに伝わってくるということに衝撃を受けた。これが、プロかと。マンガみたいにタライが脳天に落ちた。

それはわたしを掻き立てるものがあったのだけれど、「自信をなくす」ではなくて、わからないまま書くと「なにかするためになにかしなきゃ」という謎の感情だった。

その衝撃からじぶんを落ち着けること数日、今朝読んだばななさんの文章に、わたしのこたえがあった。題名のとおり引き寄せたのか、わたしの目がそう見ているだけなのか、あることがあたりまえだったのか。

ここのところずっと自信について考えていて、じぶんには見えていることを、人に話すときに「自信」ということばを使うとなにかズレている気がしていた。自分の今までしてきたことや目の前のことにはおおきな自信が持てるのだけれど、まだ起こっていないことや行動していないことに対してわたしが感じることを、「自信がない」でも「不安」でもないし、これはなんだろうと思っていた。

それが、ばななさんのnoteを読んではっきりとわかった。

自分が今からすることに「できないかもしれない」と思っているのではなく、確実に「自分にとってあたりまえだ」と思うための、スケジュールつくりのようなものをしていたんだなと。

わたしは、これから行動することに「ぜったいに大丈夫」などと事前に自信をもつことはできないけれど(これをやるには生まれ直さないとたぶん無理)、目の前にあるものを確認することで、「これもあるし、これもあるのね、じゃあわたしがやるでしょ」と、あたりまえにやることができる。

「なにかするためになにかしなきゃ」は、「行動するためのあたりまえを並べなきゃ」だった。

自分の考えていたことと、だれかの考えていることが、こんなふうに作用する瞬間って、人生のご褒美のようで、ほんとうにすてたもんじゃないなと思える。


有料noteの内容が一部ネタバレだけど(ごめんなさい)、自分のなかだけに抑えておけなかったので書いてしまった。わたしのこたえだけど、これはたくさんのひとのこたえだと思うので、ぜひ読んでほしい。

書き終えたら、勝手な宣伝とただのラブレターになってしまった。


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