サヨナラさえ、上手に言えなかった(自己チューのいいわけ)
男のひとの顔をさわりたくなる。
さわる機会などなかなかないのだけれど。
父が死んだ日、霊安室で父のそばにいたとき、顔をさわるとカチカチにかたくてつめたくて、それは肌と肌の感触ではなく、肌と物の感触だった。
父は容れものになってしまった、と思った。
数日後の父の葬式の日、冷凍保管されていた父の顔はもっと冷たかった。
父はもうそこにはいなかった。
わたしはこどもの頃からずっと、父を意識して生きていた。そして、どこにいても、なにをしていても、なぜかいつもどこか憂鬱だった。
しかし、父と自分の関係性に問題があるということを、自分のなかで大きな問題としていたのは、他のだれでもない自分自身だったと今になるとわかる。
何かを中心にして意識していると、そこに問題があるように見える。
お金を中心に考えているとお金に問題があり、恋愛を中心に考えていると恋愛に問題があるように見える。
そこを見ているから、見えてくるのだろう。
たとえば、たくさんお金が欲しいと思うことと、お金なんていらないと思うこととは、強く意識しているということでは同じだと思う。自分に大きく影響があることとしてしまうという意味で。
父がいなくなって、そのことに気がついて、それではこれからはなにを意識して、なにを中心に生きていけばいいのかと考えた。
そして、自分を中心に、自分を意識して生きていくことにした。
自分を中心に考えると、同様に自分の中の問題に目がいく。だけど、それは自分で解決ができる。他人や世の中の問題は、大きければ大きいほど自分では解決できないけれど、自分の問題だけは、最短距離で解決できる。
自分を意識して世界をみていると、見たものすべてを自分と関連づけるようになる。
なにか(きれいな景色)をみたときに、意識しているもの(好きな人)のことを思い出すように、なにか(世界)を、意識しているもの(自分)のこととして見ることができるようになる。
かくしてわたしは自他ともに認める自己チューなのだけれど、自分よりもなにか他の人や出来事を意識していると、世界に問題ばかり見えてしまうのではないかと思っている。
逆から言うと、世界に問題ばかり見えてしまうのは、自分が中心ではなく、そこからずらして、他のなにかのせいにしているのかもしれない。
こどもに問題があるように見えるときは、自分の眉間にシワがよってはいないか。
恋人に問題があるように見えるときは、自分は相手を大切にできているか。
何かのせいにしないのは、とてもむずかしいことだけれど、それができなければ自己チューが廃る。
これは自己チューの、自己チューによる、自己チューのための、ラブレターだ。
生きているうちに父の顔をさわることができなかったな、と思うようなことは、これからもうしたくないから、自分のすきなように、顔もさわらせてもらおうと思う。ダメか。
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