見出し画像

嵐の後に晴れたら、それって本当にハッピーエンドなの?

たとえば、今日という日が、その人にとってカラッと晴れた青空のような心持であったとしても。その心の中に、大木からの心地よい風が吹いて、機嫌よく小鳥の唄声が響いていていたとしても。

それが「ハッピーエンド」なんて本当だろうか。

たとえばその人が、人生の大半を雨の中で凍えながら過ごしてきたら?
空のない部屋の中で鳥かごに入れられたみたいに「自由」を許されずに生きてきたとしたら…

「自由」の象徴みたいな青空の下、乗りこなし方もわからない「自由」を突然与えられて、戸惑ったり、恐怖すら感じてしまうかもしれないじゃないか。
そのことを誰が責められるだろう。

「自由」は選択の連続だ。
雨の中や鳥かごのなかでしてきた「選択」とは全てが違うはずで、でも、どう違うのかも、どんなふうに違うのかも誰も説明してくれないまま晴天にさらされる。
ずっと晴天の中で、「自由」の生き方を「トライ&エラー」できた人、間違った「選択」を優しくオトナが諭してくれた人と、同じ土俵で生きていくなんて。

でも、世の中には、検索したり調べれば、「ルール」とか「モラル」とか「規範」みたいに、わかりやすく「選択すべき形」をリードしてくれるものもある。それは、一見「自由」を制限するものだ。でも、人の中で自分の「居場所」を見つけようとするとき、自分を守るための「選択」を教えてくれたりもする。

じゃあ、もっと些細な「選択」は、どんなんだろう?

「優しさ」とか「心配り」とか「温かさ」に分類されちゃうような、小さな小さな選択は?そういうものが、いつの間にか「馬鹿にしてる」とか「冷たい」とか、「拗らせてる」というラベリングになるんじゃないのかな。

だとしたら、突然やってきた晴天はまさに「第二の試練」そのものだ。「自由」は未知の乗り物で、乗ったからには「責任」だけはきっちりついて回る。

わたしは、運よく形だけの「社会復帰」は果たすことができてすごしてきた。でも、本当の「自由」を手に入れることに成功したのはつい最近だ。わたしは今、「自由」が嬉しくもあり、怖くもある。

「形だけの社会復帰」は「自由」を手にすることよりは難易度が低く感じた。なぜなら、会社組織の上下関係や役割分担にうまく乗れれば何とかなったからだ。もちろん、何とかなったのはわたしがラッキーだったから、に過ぎないと思ってる。

「自由」は、「ひきこもり」から脱出した先に待ち受ける、かなり大きな難関なんじゃないかと感じてる。

わたしはというと、見栄を捨てることで失敗することを受け入れることに挑戦中だ。「失敗しても大丈夫そうなもの」から少しずつトライしてみる。そして、失敗続きな自分、他の人と違う自分も受け入れてくれる居場所を見つけられたら大成功。

同じルートなんて存在しないし、同じ感じ方も同じ条件もあるはずがない。感受性も、すべての人にとって「自由」を保証されてる。

だから、みんながそれぞれ自分なりのトライをするしかないと感じている。

あなたのトライは順調ですか?もし不調なら、それはきっと順調です。

***

このnoteはここで終わりです。もし共感、いいねと感じてくださった方はコメント・投げ銭などよろしくお願いいたします。

田舎の町に、引きこもりの人も含めたフリースペース、フリースクール、そして職業訓練施設を作ることを夢見てます。応援していただけたら嬉しいです。