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2011年に失ったもの【4】

「余命3ヶ月」と診断された母は、本当に3ヶ月後に亡くなりました。

亡くなる一週間ほど前。何も口に入れられなくなった母に「何か食べたいものはある?」と聞いた時、母は「福島の桃が食べたい」と言いました。

死ぬ間際に何が食べたいのか。
健康な私もたまに考えることがあります。自分が最期に食べたいものは何だろうか?と
「福島の桃」は、母の大好物でした。
10年前、私が福島をルーツに持つ夫と結婚して以来、毎年夏になると、福島の桃「あかつき」が佐賀の実家と東京の私達の家に、山ほど送られてきました。

西日本出身の私は、桃、と言えば岡山の桃でした。
桃から生まれた桃太郎。の、岡山の桃。
しかし、夫と結婚して初めて福島の桃「あかつき」を食べた時、本当に驚きました。
自分が今まで食べていた桃はなんだったのかと。
本当にうマーベラス!な美味しさでした。
私と全く同じ驚きを、佐賀の母も感じていたようで「福島の桃は世界一美味しい」とよく言っていました。

しかし、その「世界一美味しい」福島の桃は、2011年には送られてきませんでした。原発事故のせいで。

しかも、その時の季節はもう秋にさしかかっており、桃が店頭に出回る時期はとうに終わっていました。
だけど、どうにかして桃が手に入らないかと、東京にいる夫に電話して頼みました。
夫は、都心のフルーツ店やデパ地下をさんざん回ったあげく、「ごめん。もうコレしかなかったけどとりあえず」と山梨産の桃を送ってくれました。

夫が送ってくれた桃をすりおろして、母の口に運んだら、母は「あぁ、いい匂いだね…」と言いました。
でも、すりおろした桃のスプーン一口すら、飲み込むことはできませんでした。

その2日後に母は亡くなりました。

亡骸を病院から引き取り、葬儀会社に連絡をつけ、自宅で線香を絶やさないように一晩中起きていたその夜から、通夜を経て、葬儀の日まで、忙しすぎてなんだかよくわからない間に時間が過ぎていきました。

母が亡くなったこと、その事自体は全く悲しくありませんでした。

母がいなくなったことで、これまでのつらかったアレコレが、これでやっと「成仏」できるんだな。と思えました。
母は私が大人になってからも、私の生き方や価値観をことごとく否定してきました。
酷い言葉を浴びせられたことは一度や二度ではありません。
それもこれもやっと終わったんだな、という安堵の気持ちがありました。
人を嫌だと思ったり、憎く思ったりすることは、ただただ心が疲れるだけです。
これからの人生は、そんなことをもう感じずに済むんだな。と思ったら心が軽くなりました。

母の葬儀は大々的に行われました。

佐賀市会議員、佐賀県会議員、佐賀県選出の現職大物国会議員も、母が死んだ直後に我が家にやってきて手を合わせました
大きな葬儀会場で200名を超える参列者の中、母が日本舞踊を教えていた中学生が「別れの言葉」を泣きながら告げるのを聞きながら、心の中がどんどん醒めていったのを覚えています。

この葬儀会場の中で、私だけが「悲しんでいない」のかもしれない、と思いました。

葬儀の片づけが全部終わった後、私が一人で呆然としていた時、仙台から東京の家にずっと手伝いに来ていて、そのまま佐賀に来て葬儀に参列してくれた義母が私の肩を叩いて言いました。

「大変だったよね」

と一言だけ。
母が亡くなった時は一滴の涙も出なかったのに、義母の「大変だったよね」という言葉を聞いた瞬間、涙が止まらなくなりました。

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