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2011年4月~6月【3】

2011年4月29日(金)。東北新幹線が復旧しました。
ようやく東京から仙台へ行くことが可能になりました。
夫は、GWを丸ごと+持っている有給の大半を使って仙台へ行き、自分ができる最大限の事をやってきました。
仙台から帰ってきた夫はとても疲れた様子で、ポツリと「見たくないものを見過ぎた」と言いました。

そこから少し遡ること。
3月15日から4月上旬にかけて少し時を戻します。

当時、関東地方では「輪番停電」というものが行われていました。

地震により、福島原発および多くの発電所が使えなくなり、東京電力管内の電力がひっ迫したために、地域ごとに一部ずつ時間を決めて停電させることによって、電力消費量を調節するということでした。

この「輪番停電」は、東京電力管轄の関東全域で行われたのですが、東京23区だけは特例として停電がありませんでした。

私が住む地域「東京だけど23区じゃない」多摩全域はことごとく停電しました。
「東京だけど23区じゃない」という事は、実質上「東京じゃない」ということを、その時知りました。

「輪番停電」により、朝とか昼とか夕方とかの数時間だけ停電する、という日が続きました。
朝とか昼はよいのですが、夕方から夜にかけての停電はなかなかの経験でした。

夜にロウソクをともして、懐中電灯をつけて、卓上コンロで調理した夕食を子ども達と食べていると、子ども達が楽しそうに「ハッピバースデーツーユー」と歌いながら拍手をしました。
懐中電灯をつけて真っ暗なお風呂に入りました。
昼にスーパーに買い出しに行くと、節電しているスーパーは真っ暗でした。
停電している時間は、信号機も真っ暗でした。赤も青も黄色もなし。

あれが一番怖かったです。

そんな「非日常」がずっと続く中、私は自分のバンド「ハルコフヲン」のライヴがどうなるかをずっと気にしていました。
2011年の4月末に、吉祥寺マンダラ2でハルコフヲンのライヴの予定が入っていたからです。

2011年のその時。バンドの相方は「戦時」のような非日常的事態が続くことによるストレスによって、メンタルが弱っていました。

私は車で相方の家に行き、4月のライヴをどうするか、かなり長い時間話しました。

長い時間をかけて話し合って「この精神状態ではライヴはできないだろう」という結論を出しました。

帰りの道のりは停電の真っ最中で、信号機は、赤でも、青でも、黄色でもない。
信号は真っ黒でした。

車で帰宅する間、心の中まで真っ黒になりました。

次の日、吉祥寺マンダラ2の店長の中野さんに、「(こういう事情で)ライヴはできません」と伝えました。

その時、中野さんは言いました。

「まぁ、しょうがないよ。君たちだって「被災者」なんだから」と。

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