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朝露をみた

うちは近年はGWは館山へ出かける
混むところに行くのは避けたいので、人が移動する時間ではなく、
保育園終わりの夜に移動したり、さっさと前日の朝に帰ってきたりする。

いくのこと自体は、大変なこともあるけれど
行ってよかったなと思うことは多い。

今回一番実感したのは、わたしの心が整うのだということ。
ずいぶんとゆるりとした。

子どもたちが寝ているのは、朝の時間だけだったりするので。
朝そそっと出て行ってみたり、夕方外を歩いてみたり

「ちょっと散歩してくる」とボソッと主人に声をかけて
と何気なくジャージのまま出掛けて
帰ってきたら気づいたら30分くらい経っていた。
20mくらいの短い距離の散歩なのだけれど、時間は勝手に過ぎていた。

ぼーっと、ふらふらと歩いていた。

まわりを飛ぶ小さな虫たちの群れも
姿が見えないカエルたちの鳴き声も
夕日に照らされてキラキラする名前のわからない穂も

存在感があるなと思った

そこに地位やヒエラルキーは存在しない。
効率や段取りは必要がない

美しいなと思った。

時間でその顔は違うのだろうと思い、朝も散歩したいと思った。

翌朝、7時すぎ。子どもたちは起きないだろうと踏んで、寝巻きのまま外に出た。

小道を歩きつつ、周りにある水路に水があるところには
おたまじゃくしがいないかなと気になっていた。(結局今回は出会うことができなかった)

その中で、目に留まった、笹のような形の、名前を知らない大きな葉っぱたちにたくさんの水滴がついていた。
雨は降っていなかったはず。朝露だったのだろう。

よくみてみると、その水滴がまんまるとしてキラキラと光っていた。
長女はキラキラしたものが好きだから見せてあげたいな。
写真で残したいな。とも思ったけれど、その行動が味気ない気がして一人で堪能した。

時折、遠くでトラックが走っている音がする。その度に、あ、寝巻きだったな。ま、いいかと思う。

普段、横浜の比較的自然の多い地域に住みながらも、
目の前に畑が広がり、人の気配が最小限になっているその場は、ものすごく澄んだ空気をしていた。

こんな文章はふだん書くことはない。

だけれど、実は自分の中に流れているものなのを思い出した。
小さな物語というか、物語というには何かとっても足りない何かが流れていて
わたしだけが認識していた。

特に、動画の音声を耳に入れた便利なもので流さないで
対話する相手が自分しかいない環境が最高に気持ちが良かった。
そこにいる自分は、鳥やカエルや虫たちにとっては邪魔者でよそ者。
ただ、そこにいる自分というものを存在だけ感じる時間だった。

アメリカに高校生のとき、1ヶ月だけホームステイに行かせてもらっていた。
当時も、ホストファミリーの車の中で、ひたすらコーン畑の景色の中、
自分との対話が回っていた。
玉ねぎをオニオンとしか言えなくなるほど、オニオンを愛し(他に摂れる野菜がほとんどなかった記憶がある)
自分とばかり話をしていた当時のような感覚だな、なんて思っていた。

雨の日に子どもたちを送り迎えしている時も、
自分の頭の中では実況中継というか、こういう言葉たちが並んでは消えていく。
これを書くことが自分にとっては非効率だから、取り留めもなさすぎるから、
いらないもののように扱っていたみたい。

ただ、こういうのもいいのかもしれないと思い。
こういうのを書いてみたいという感覚も今回強くあり、書いてみたのだった。

口調がいつもと違うのが気になるんだけど。頭の中ではこういう感じなので、このまま失礼しました。
明日からお仕事。今回の感覚を無くさない程度に戻ってみようと思う。

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