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【観劇の記憶】「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」、2007年2月

今年、浦井健治さん主演での上演も決まっている「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」。
浦井版は日本で4つ目のプロダクションになるのかな、と思いますが、こちらの記事は日本でふたつめのプロダクションだった山本耕史主演版の観劇レポートです。

日本初演だった三上博史主演版も観ていますが、三上版は「演劇」っぽい作りだったのに対し(結構、小道具も舞台上にあったような…アタマを突っ込むオーブンとか)、山本版からはライブ形式になった印象。…と言っても三上版もPARCO劇場でやったあとライブ会場でもやっていたので、変化していたのかもしれませんが(私はPARCO劇場でしか観ていません)。

ちなみに原稿中で作品にまつわる伝説を上げていますが、もういっこ日本版で生まれた伝説。
三上版のとき、ペースメーカーを入れている蜷川幸雄さんが医者に止められながらも劇場に足を運んだそうな。

原稿は2007年2月16日に書いています。初出はたぶん「@ぴあ」特設サイトです。

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歌舞伎町の真ん中で網タイツの山本耕史が魅せた、切ないほど優しい愛のカタチ

ひとりの性転換ロックシンガーの数奇な人生を通し、愛を探し求める魂を描いた名作「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」。'97年よりオフ・ブロードウェイで上演、'01年には映画化もされ、日本では三上博史が'04年・'05年に主演した舞台が大ヒット。あのデヴィッド・ボウイがグラミー賞の授賞式をすっぽかして観劇した、マドンナは劇中歌の権利使用を申し入れた、など数々の伝説と根強い人気を持つこのロック・ミュージカルに山本耕史が挑む“新生ヘドウィグ”が2月15日(木)、新宿歌舞伎町のライブスペース・新宿FACEにて幕を開けた。

長い派手な金髪に、ドギツいメイクはラメもぎらぎら、重そうなつけまつげ、挑発的な黒の短い皮パンから伸びるすらりとした足には網タイツ、10センチはあろうかという厚底ブーツ。『新選組!』の土方のニヒルな笑みで山本のファンになった人には想像もつかないだろう衝撃的な姿。初日に先立ち14日(水)に行われた公開稽古の場で「びっくりしました、こんなにも自分が魅力的とは(笑)」と本人が語った、山本の麗しきドラァグ・クイーンぶりを見るだけでも一見の価値がある。が、この作品の魅力はそれだけではない。

川向こうのスタジアムでコンサートを行っているロックスター、トミー・ノーシスのスキャンダルでワイドショーに登場したヘドウィグ。彼女(彼?)は一体何者? そんな興味でライブ会場に来た観客に、ヘドウィグは語り出す。旧東ドイツに生まれ、アメリカに渡りロックスターになることを夢見た少年が、アメリカ兵と結婚し性転換手術を受けるも手術ミスで股間に“アングリーインチ(怒りの1インチ)”を残し、渡米後も自身の“カタワレ(=愛)”を探し求めるという数奇な人生を……。

ヘドウィグ率いるロックバンドのライブという設定で行われるので、この作品の観客は、“ヘドウィグのライブに来ている観客”でもある。だからタブロイド紙を見て足を運んだライブの客のように、興味深々でオネエ言葉の山本ヘドウィグを見つめるのが正解だ。その姿勢こそがライブに一番溶け込める。そしてそのうちに自然と、切なくひどく寂しい、純粋な魂を持つ彼女に惹かれていく。

ゲイ、ドギツいメイク、東ドイツからの亡命、スキャンダル……まるで油絵の具で塗りたくったように様々な装飾で飾り立てられたヘドウィグの人生。しかし山本は、そんな彼女を繊細な人として描き出す。鎧のようにゴッテリとした飾りで固められているのは、泣き出しそうなほど純粋な魂。失われたカタワレを探し続けるのは、誰よりも愛を信じているからなのだ。山本ヘドウィグは顔を真っ赤にし汗を滴らせながら愛の歌を熱唱するうちに、何かをひとつづつ脱ぎ捨てているよう。ラスト近くなど、浄化されたかのように透明な存在としてそこに在る。

ヘドウィグの“夫”イツァークを演じているのは、人気急上昇中の歌手、中村中。女性でありながら男装をしてヘドウィグを愛するという難解な役どころをなんともナチュラルに演じている。歌唱力もさすがで、山本とのハーモニーも、寄り添うヘドウィグとイツァークのようにぴったり合っていて美しい。

初日の観客は開幕前、期待のあまりか意識がステージに向かって尖っているような緊張感で静かに熱かった。だが最後には、演出で入る効果音の歓声を消すような大きな拍手、拍手。耳鳴りと高揚感とともに、バケモノメイクのキュートな彼女からもらったのは溢れるほどの優しさ。ライブハウスが愛でいっぱいになった一夜だった。

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原稿ここまで。

そういえば山本版は、全編オリジナルの歌詞で英語のまま歌ってたんです。これは日本のミュージカル界で画期的な試みだと思ったし、アリじゃないか、今後増えていくんじゃないかと思ったんですが……2019年現在、特に定着もしてませんね(笑)。
今だから言えるけど、原詞で歌うことで原曲の良さが伝わる良さはあったけれど、それにしてももう少し観客に優しくても良かったのではとも思う。
歌詞の世界を伝えるイメージ映像が映しだされたのでフィーリングは伝わったのですが、字幕などは一切なしだった。字幕、もしくは終演後に対訳を配る、とかしてもよかったのではと思うのです。
せっかくメタ的な楽しみ方(舞台を観にきた観客=ヘドウィグのライブの客)が出来る、作品に没入できる作りになっているのに、歌詞の内容が伝わらないことで、客が置いてけぼりになっていないか心配になったことを思い出しました。
(といったマイナスポイントは、オフィシャルな原稿には書きません・笑)

でもこの山本版、私は好きだった。

浦井さん版はどうなるのかな?

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