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見えないもの

金子みすゞさんの詩に「星とたんぽぽ」という詩がある。娘は1年生のとき、延々とこの詩をお風呂で唱えていて、いまも思い出すように唱える。

青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。
 
ちってすがれたたんぽぽの、
かわらのすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根はめにみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。


金子みすゞさんは目に見えないものに想いを馳せる人だった。大漁だ大漁だと海で漁師たちがお祭り騒ぎをしているとき、海の中では魚たちがたくさんの仲間の死にかなしんで弔いをするだろうと書いた人だった。

お風呂場にむすめの「見えぬけれどもあるんだよ」という声がこだまするたびに、いまわたしに見えていないけれどもあるものはなんだろう、と思う。たまに独善的になりそうになる時がある。そういうときは、きっと見えるものしか見てない時だ。


リーダーが部下の見えない頑張りが見えてなかったり、パートナーやこどもの推し量った行動が見えていなかったりする。たしかに直接見ていないものだ。だけど、見えなかったらなかったことになるんだろうか。だれかのそういう様子を見かけると、とても悲しくなる。

なんでわかってくれないんだとか、自分はこんなに頑張ってるのにとか、そんな言葉からはじまり、だんだんと信頼を寄せられなくなり、周囲に優しくできなくなり、人が離れて、それによりまた人を信頼できなくなる。

もしくは、

どうせわかってもらえない、とか、自分よりしんどい人はいるのになぜ自分はこうなんだ、とか、そんな言葉からはじまり、自分はだめだとを追い詰めて自虐して、周囲を見つめることができなくなり、人が離れて、それによりまた自分を追い詰めてしまう。


見えぬものを見つめるためには何がいるんだろう?「目には見えないけれど、相手にはたくさんの背景があるはずだ」と、思えることってどうやったらできるようになるんだろう。

今のわたしには答えがないけれど、もしかしたら、なにかをまっさらな状態から学ぶことそのものをやめずにいたら、なにかが開けるかもしれない。学び続けていたら、いつか他者からは見えぬ自分の行動を、かすかにでも誰かに見とめてもらえて、そこからなにかが動き出すのかもしれないと思っている。


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