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あたりまえの朝(サウナじゃない話①)

朝5時30分。
「右に曲がります」と一言。
白い車が家の前の道に入ってくるのが見えた。

向かいの家で救急車を呼んだらしい。
ドアの前でじっと目を凝らし、耳を澄ませる私。
わずかに見えるストレッチャー。
乗っているのは向かいのご主人だった。


いつの間にか真っ白になった髪と、
細い肩と、
骨の浮き出た足首が順番に見えて、救急車の中に消えていった。

奥さんがそのあとをついていく。
以前よりひと回り小さくなった体。
声の若い救急隊員に
「火の元大丈夫? 戸締まり大丈夫?」
と聞かれていた。

奥さんは確か画家だと思う。
別の場所にアトリエを持っていて、ご主人とは週末婚だったと思う。
ご主人はどこかの大学に勤めていたと思う。
酒飲みでいつも大量の酒の瓶やら缶を捨てていた。
派手な車に乗っていた息子がいたが、
今はもう家を出ていると思う。

「思う」と書いた部分は、噂だ。
ずっとこの一家の前で暮らしているのに、
私が知っているのはこれくらいだ。

酒を飲みすぎて脱水症状でも起こしたのだろうか。それとも持病があったのか。
今のことは何も知らない。

救急車はしばらく動かない。
どうか搬送先がすぐに見つかりますようにと願いながら、
私は朝の支度に戻る。


昔。
家族が救急車に乗ることになり、私が付き添ったことがある。救急車の中で救急隊員は、家族の名前や私の名前を聞いた。
やがて搬送先が見つかり、救急車は動き出した。
救急隊員は意識が朦朧とする家族の耳元で
「サチコさん。聞こえますか?」と言った。

私は耳を疑った。
「サチコさん、わかりますか。サチコさん」
それは私の名前ですと、どのタイミングで言おうか迷う。家族は自分の名前じゃないので、もちろん返事をしない。
隊員は尚も繰り返す。
「サチコさん。返事をして」と。


仕方なく私が返事をした。

笑えない状況だったのに、
車内に笑いがこぼれた。


あたり前の朝は突然崩れていく。
時間が経って私のように笑い話になってくれることを願う。


向かいに停まる救急車が動き出す。
いつもと同じ風景が戻る。
でも、向かいの家には誰もいない。

一日が始まる。

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