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私のお墓の前で泣いてください

これを投稿した1分後かもしれないし、1年後、10年後、50年後かもしれませんが、私が死ぬ、その前に、皆さんに言っておきたい事があります。きつい言い方もしますが、私の本音を聴いておいてください。


交通事故、殺人事件、テロ……私が何かに巻き込まれて死んだとき、飲み物やお菓子、お花といったお供え物はなにも要りません。その場所に、私はいません。七日目には三途の川に辿り着いています。最期の場所に、私をとどめないで。

幼稚園、小学校の同級生であれば、私の家の場所をご存じだろうと思います。今のところ引っ越してません。中学以降の友人、社会人になってから出会った方々でも、それぞれのつながりのなかで誰か一人は、私の家の住所を知っています。たぶん。私のお墓は、まあ実家の近くにあるでしょうから、そこでお線香を立てて両手をあわせてくだされば、それで十分。

それ以外の、私の本名や、実家の住所を知るすべのない方。
私個人の死を悼んでいただく必要はありません。あなたの暮らすこの世界のどこかで、何かがあって私が死んだとして、その出来事への関心を持っていらっしゃるとしても、持っていないとしても、私という人間の生き方や、死に方を、根掘り葉掘り探る必要はない。というか、たぶん、聡明な皆さんのことですから、知りたいって思ってるわけじゃないですよね。

だからそれをわざわざ、皆さんに「知らしめる」必要だってない。知らしめよう、見せつけようとする行為は必要ない。私はそう思っています。


私は昔から可愛くて皆さんのアイドルだったので、幼少期からの写真を世間の人に見せたいという人もいるかもしれません。でもそのすべてが、私が皆さんとの関係性においてお見せした姿ですから、どうか赤の他人にさらさないでください。

私は人柄も良く、友人にも恵まれ、近所の人にも可愛がってもらっていますので、何かの「被害者」になったときには、「あんなに良い子だったのに」とか「昔こんなことがあって」とか、皆さんは言ってくださることでしょう。わかってますので、インターネットやテレビなど公共の波にその言葉を乗せたがる人に、お話しいただかなくて大丈夫です。みんなの愛は、痛いほどわかっています。

私は、命を落としてから、「かわいそうな人」と思われたくありません。私の人生を、「悲劇」として死んでなお食い物にされたくないんです。


私は昔から文才があったので、文集や卒業アルバム、facebookやこのnoteの投稿も、「類まれな才能を持った美女」の生きざまを知るものとして、一部の人の注目を浴びてしまうかもしれません。わざわざ紹介してくださらなくて結構です。私がそれを読んでほしい方たちは、もう読んでくださっていますので。

私は賢いので「知的財産管理技能士」という資格を持っているのですが、著作権は著作者の死後70年間保護され、すべての著作物について「いつどこでどのように公表するか」に関する決定権を著作者が有しています。例えばネットに投稿したものであっても、著作者の許可なく放送することは著作権の侵害にあたります。やめてください。

私がいつか、今まで以上に素晴らしい作品をつくったとしても、私自身の死に方によって、その作品の価値が結果的に高まることは、ひとりのクリエイターとして不本意です。


皆さんのお蔭でいい人生だったと、私は必ず、そう思いながら死んでいきます。だから忘れないでください。私が死んで、涙を流してくださるなら、どうか私のお墓の前で泣いてください。

まあ、私も別に、お墓にはいません。たぶん。四十九日を過ぎれば極楽浄土にいます。お彼岸やお盆には、あなたのそばに帰ってくるかも。それ以外に何かしてほしいことがあるときは、夢枕に立つでしょう。

死んだ日よりも、生まれた日に、私を思い出してほしい。私とあなたの思い出は、あなたのなかの私は、きっとお互いの心のなかに生き続けています。

この思いが、届くべき人の心にも届いてくれることを願っています。

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