ワイングラスとバターナイフ【掌編小説】

 ホントにおどろいたなあ。

 君がこの店の場所を忘れてるなんてさ。去年だって一昨年だってここで食事をしたじゃないか? 僕はちゃんとこうやって、今年も夜景のキレイな席と大きな花束と気の利いたプレゼントを用意して三十分も前から待ってたっていうのにさ。

 君ときたら「ごめんなさい。どこだったかしら?」なんて。

 電話の向こうであまりにも申し訳なさそうな声を出すものだから、僕はもう怒るのを通り越して心配になってしまったよ。ほらこんなに青ざめているだろう? これでももうワインを二杯は空けているんだよ? いつからそんな方向音痴になっちゃったんだい? 君は?

 いや、うそうそ。いいんだ。些細なことだよ。ちょっと君をいじめたくなっただけさ。ごめんよ。

 その深い碧色のワンピース似合ってるよ。僕はそのワンピースに袖を通している君が好きだよ。君がそのワンピースを着ている日ぜんぶを、僕の記念日にしたいくらいだよ。カレンダーにせっせと○をつけてね。だから機嫌をなおしておくれよ。まいったなぁ。

 ワイン飲みなよ。

 世の中の問題の大体は、美味しいお酒が解決してくれるよ。そして、迷子になったことなんかすっぱりと忘れてしまいなよ。ね?

 ん、ずいぶん渋いワインだな…。よく見たら僕が頼んだボトルと違うよ。やれやれ、この店のソムリエも忘れっぽいみたいだね。

 それとも今日はそういう日なのかな? 僕のことはみんなに忘れられてしまうんだ。そういう呪いさ。生きているうちに一日くらいそういう呪われた日があってもおかしくないよね。おっと、今日は君の誕生日だった。呪いなんてトンデモないね。ふふ、忘れておくれ。酔っ払いの戯言だよ。

 ああ、逆にひとつ面白い話を思い出したよ。料理が運ばれてくる前に話してしまおうかな。短い話だし、それこそ忘れないうちにね。

 この話には二つの道具が出てくるんだ。

 ワイングラスとバターナイフさ。

 おや、偶然にも二つとも目の前にあるね。じゃあ、左手にワイングラスを、右手にバターナイフを持って話そうかな。うそうそ、バターナイフのほうはやめておくよ。

 ワインが好きで、ワインを飲み過ぎた男の話でね。

 彼はワインを愛していたし、ワインに愛されてもいた。幸福な生き方だと言えるね。でも、きっと、少しだけワインに愛されるほうが強かったんだな。愛情のバランスって難しいものだよね。彼は重度の肝硬変にかかってしまったんだ。医者もスプーンを投げるほど。もう手遅れさ。僕も気をつけなくちゃいけないかな、なんてね。

 男は人生の成功者で、いくつもの会社を経営し、財産を得た。家族にも恵まれた。美しく賢い妻と、三人の子供達。長男、長女、次女。それぞれの結婚相手も問題なかったし、可愛い孫もいた。順風満帆ってやつさ。

 晴れた光の中を、風を受けて、船は進む。

 まるでターナーの画みたいに、まばゆくて力強い人生さ。

 ただひとつ、酒という波がときおり、彼の船を揺らしにかかった。これが後々トンデモないことを引き起こしてしまうんだけど、それは今は置いておくよ。 手札に溺れてカードの切り方を間違える男は、決して成功できないからね。

 …やっぱりこのワイン渋すぎるんじゃないかな? ボトルを変えてもらおうか? 大丈夫? ならいいけど。

 彼は自分の肝臓に異変が起こりつつあるのに、気がついていた。顔色も段々悪くなっていたしね。もう年も六十を超えていたし、飲む量を控えていたんだけど、完全にやめることはできなかった。彼はそれまで、事故も大病もしたことなかったから、酒の魔力を侮っていたんだな。

 そしてそういう男にありがちなことに、まったく医者にもかからなかった。苦しさに耐えかねて診察室で仰向けになったときにはもう手遅れさ。

 9回ウラ、ツーアウト、ランナー無し。

 ストライク、ストライク、ファール。

 バッターボックスに立っているのがやっとの無残なロートルさ。あれ、野球を知らないのかい? サッカーで例えたほうが親切だったかな?

 まあ、要するに彼は死神とまともに目を合わせてしまったんだ。診察結果を聞いた彼が、まずやったことは何だと思う? 分からない? 決まっているじゃないか、ワインバーに行って一杯引っかけたんだよ。

 …おや、笑わないね。まいったな、ここがこの話で唯一の笑いどころなんだけど…。

 …続きを話すよ。

 男は自分の命が長くないのを知って、一大決心をした。自分が死ぬ前に財産を家族に贈与してしまおうと考えたんだ。さすがに成功した経営者だけあって合理的だね。相続税ってホント馬鹿にならないんだよ。うかうかしているとイナゴの大群に襲われたみたいに、全部もっていかれてしまう。手際のいい盗賊団みたいなもんさ。腹がたつよね。

 で、ある日、寝室に一族を集めたんだ。彼は苦しくてベッドの上で横臥したままだった。黄疸もでていたし、腹に水もたまっている。肝硬変の特徴だね。奥さんが実に献身的に看病していたけど、それでも彼の命があと僅かということは、一族全員が分かっていた。もう、それはそれは重い空気だったそうだよ。時には沈黙がなにより雄弁なことがあるってことさ。まったく、ぞっとしないよね。

 彼は長い長いリストを取り出すと、自分の財産をひとつずつ妻と子供達に分け与えていった。与えるだけじゃない、これからその財産をどうやって活用したらいいか、失わないためには何に気をつければいいか。土地建物から株式、美術品、ゴルフ場の会員権までね、すべて事細かに指示していったんだ。

 まったく大したものだね。彼はその優秀な経営者としての能力を、死の淵にあってもいかんなく発揮したんだ。お見事。なんでも彼の財産は途方もなく多かったから、全部伝えきるまでたっぷり3時間はかかったらしいよ。

 その間、彼は一滴の水も飲まずに喋り続けた。太陽は傾いてもう夕方になろうとしていた。孫達は途中で飽きてしまって、子供同士、庭で遊んでいた。彼はリストをゆっくり閉じて一息ついた。さすがに体力も尽きてきたころだ。

 でも、彼にはこれからもっと大きな仕事が残っていたんだ。

 彼の妻は、夫の言いつけ通り、台所からバターナイフを持ってきて、彼の右手に握らせた。さぁ、やっとバターナイフが出てきたよ。

 そして、男はね、自分の記憶を取り出すと、バターナイフでスッスッと切り分けていったんだ。

 死ぬ間際の記憶っていうのはね、僕たちみたいに若くて健康な人間の記憶と違って、溶けかけたバターみたいに柔らかいものなんだそうだよ。夏の日に冷蔵庫からだして半日置いておいたバターくらいだって。僕はマーガリンのほうが好きなんだけどね。

 男は自分の記憶にゆっくりとバターナイフをいれる。まるで抵抗は感じない。ちょっと手首をひねってすくい上げると、記憶はかろうじて形を保ったままナイフの上に乗っている。

 そして、男は、まず子供達に自分の記憶を分け与えていく。まあ、長男からいくのが順当だろうね。

 初めて子供が生まれた夜のこと。父親としての不安と戸惑い。小さな長男の体をはじめて抱き上げた時、何があっても俺がお前を守ってやると心に誓ったこと。仕事が軌道に乗らず苦しかった時、寝息をたてている長男の顔をみて、勇気を振り絞ったこと。まあ、何のことはない、世界中の家族にある風景さ。でも、そういうことってきっと思ったより大切なことなんだろうね。特に死の床にいる人間とその家族にとってはね。そして、そんなことが世界中で起こっているなんて、実はとても素敵なことなんじゃないかな。

 当然、他人に分け与えた記憶は、本人にはもう残らない。記憶は唯一無二の存在。それがこの世界のルールだからね。

 例え自分が忘れてしまったとしても、男は大切な家族に自分の記憶を与えたかったんだよ。思い出を抱いて死ぬより、家族に美しい思い出を残す。人によって考え方は違うだろうけど、ひとつの立派な態度だと僕は思うよ。うん。

 長女には長女との思い出を、次女には次女との思い出を。家族全員の思い出は話し合って、振り分けていった。特に親しい友人達との思い出も、小分けにして壜につめて、送り届ける準備をした。

 さぁ、残すは妻との思い出だけだ。男は残りの記憶を見つめながら、苦しくて汗ばんでいる手でバターナイフを握り直した。

 そこで、さっき言ったトンデモないことに気がついてしまったんだな。

 むしろ、なぜその瞬間までそれに気がつかなかったのか、忘れていたのか、それがほんと不思議なくらいだよ。

 男は優秀な実務家であり、経営者であった。でも、女性に対しては実に奥手な人物だったんだ。有り体に言うと、うぶだった。そして、酒、とくにワイン好きときてる。

 そういう人間はね。女性と会うときに決まって緊張して、飲み過ぎるんだよ。特にプロポーズなんて時にはね。

 そう、男はね、妻にプロポーズした時、ワインを飲み過ぎて、どんな言葉を贈ったのか、何をしたのか、まったく覚えてなかったのさ。それをずっと妻に隠してきた。覚えている振りをしてね。でも、こんないまわの際になって、求婚した時の記憶を与えないなんてオカシイだろう? いくらなんでも誤魔化せないよ。

 男はそれに気がついてパニックになった。家族も男の様子がおかしいのに気がついたけど、男はなんでもない振りをして、とりあえず差し当たりのない他の記憶から妻に与えていった。いかにも、とっておきの記憶を残している素振りでね。でも、そういうのって後回しにすればするほど、まずくなる一方だよ。彼のうぶさも死の床にあっても変わらなかったんだ。彼はしばらくバターナイフを握ったまま、ただ記憶を見つめて俯いていた。

 まさか、こんな人生の最後の最後になって、愛する妻との最も大事な思い出が抜け落ちているなんて、そして、その事実が愛する家族の前に晒されることになるなんて。こんな、情けない、申し訳ない、こんなことになるなんて。妻はどんなにがっかりするだろう。子供達はどんなに父を蔑むだろう。私は死の間際になって、自分の愚かさに心を砕かれて死んでいくのだ、と。

 まるで悲劇のオペラのようだね。

 僕も彼の立場になったら、絶望してしまうかもしれないな。ちょっと想像したくはないよね。

 …彼のとった手段は単純なものだった。彼は素直に事の次第を白状したんだ。

 申し訳ない、覚えていない、許してほしい。ただ、それだけを伝えた。そして、力なく笑って、酒には気をつけるんだぞ、と子供達に言った。

 みんな黙っていた。さっきまでとは違う種類の沈黙さ。沈黙にもね、どうやら色々な音色があるらしいよ。長男はただかぶりを振っていた。長女と次女は二人とも母親の手をとって泣いていた。

 人生には、過ぎてしまってはやり直せないことが存在するよ。残酷だけど存在する。こぼれてしまったワインはもうグラスには戻らないんだ。それもこの世界のルールだよ。

 でもね。時にはそんなルールに愚かに抵抗してみたくなるみたいなんだ。どうやら人間というのはね。

 妻は俯いている男の手からバターナイフを取り上げると、自分の記憶を切り分け始めた。そして、プロポーズを受けた時の記憶を探しだすと、迷いなく男に与えたのさ。

 男は全部を思い出したよ。自分が何を言ったか、何をしたか、あの若い日にどれだけ妻を愛していたか、妻がどれだけ自分を愛していたか。プロポーズの言葉はね「ずっとそばに居てくれないか、片時も君を忘れたくないから」だったそうだよ。どうだい? 出来すぎていてちょっと笑っちゃうくらいさ。

 言葉にすれば簡単だけど、そんな簡単なことで、美しく人生を終われるなら、それはそれで悪くない気はするよね。

 どう思う?

 思ったより長い話になっちゃったね。おや? いつのまにか前菜が運ばれているじゃないか。自分でも気がつかないうちに話に没頭しちゃったみたいだね。悪い癖だな。

 なかなか面白い話だっただろう?

 そこでひとつ君に聞きたいんだけど、君は僕にプロポーズの記憶を分けてくれるつもりはあるかい?

 もしあるなら、とりあえずワインをもう一本頼みたいんだけど。

 どうかな?

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