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罪と罰の哲学

この記事を書こうと思ったきっかけは、6年前に知人の主催する哲学カフェに顔を出した時のことを思い出したからだ。

その日のテーマは『罪悪感』で、集まったのは私も入れて5人程度。簡単な自己紹介の後に、それぞれが自分の経験から罪悪感についてフリートークをするという流れだった。

その会の基本は、「話を聞く」ということ。誰かが話している途中に批判を始めたり、自分の話に持っていくことはNGだった。初対面の人の前で自分の経験から何かを語るというのは勇気がいったが、その基本ルールのおかげが、割と皆すんなり話をしていた気がする。

当時22歳だった私は、自分よりずっと歳上の人が語る「罪の意識」に、まだ見ぬ闇を感じたりもした。生きるために仕方なくやったこと、誰かを傷つけてでも自分の幸せを優先してしまったこと。それぞれの人生に、それぞれのドラマがあった。

一番身近に感じたのは、「ダイエット中と言いながらついお菓子を食べてしまう」というプチ罪悪感。みな笑いながら「分かる〜」と頷いた。

反時計回りに始まったトークの終点は、恐ろしいことに私だった。

私は、幼い頃からルールを遵守するクソ真面目な性格だった。そのため、「これは悪いことだ」という自意識がある中でモラルに欠ける行動をすることは決して無かった。つまり、罪悪感を背負うと予測出来る行動は回避しながら生きてきたのだ。万引きだったり、イジメだったり、浮気だったり。自分の中で超えてはいけない一線がはっきりしていた。

だが、それはつまり「自分の決めたルールでなければ、罪であると知らずに破っていた」可能性もあるということだ。このあたりが人間の面白いところで、一人一人異なる倫理観や哲学を有しているため、罪の線引きが人それぞれなのである。その違いを語り合い理解することが哲学カフェの醍醐味だった。

さて、そんな自己中心的な罪の線引きをしてきた私が、一体どういう時に罪悪感を覚えてきたのか。それは、故意ではない過失で誰かを傷付けたり、物を破損した時だった。さらに言うと、それを咎められなかった時。誰にも気付かれず、何の罰も受けなかった時だ。

この発言をキッカケに、「罪悪感」というテーマは「罪と罰」についての議論に発展した。

罰を受ければ罪は赦されるのか。

罰を受ければ自分の中に生まれた罪悪感は消えるのか。

罪の重さと罰の重さは誰が決めるのか。

いよいよ哲学らしくなってきた。気分はプラトン時代のアカデメイアである。

罪悪感の重さと罪の重さは必ずしも比例しない。罰を受けることで自分の心が赦される人もいれば、罰を受けてもなお消えない罪の意識に苦しむ人もいる。あるいは、どんな罪を犯してどんな罰を受けようとも罪悪感が芽生えないような人間も。

ある人は、ちょっとした罪悪感は寝て起きると忘れてしまうと言った。ある人は、今も消えない罪悪感があると語った。ある人は、何か別の善行をすることで罪の意識を和らげていると話した。

さて、私はどんな人間だろう。あなたはどんな人間?

今のところ自分の中に、消えないほど重い罪悪感は無い。それこそドフトエフスキーの「罪と罰」に描かれているような、人殺しという罪を犯した人間の苦悩は知らない。法律を犯すことだけはしていないという自負がある。

そもそも、「法律を犯してはならない」という倫理観はいつ培ったのだろう。罪の意識とそれを悪とする倫理観は何をきっかけに芽生えたのだろう。家族か、友人か、書物か、学校か。

今の世の中で、子供たちは正しく罪を認識できているだろうか。

学校内で起きた暴力事件は全て「いじめ」の三文字で一括りにされる。たとえそれで自殺者が出たとしても、気付かなかった教師や気付いていて助け舟を出さなかった教師は、今日もどこかで教鞭を取っている。先生同士での脅迫や暴力もなぜか「いじめ」と表現される。

あの狭い「学校」という建物は、何を守りたいのだろう。「教師」という資格がなぜそんなにも偉そうに踏ん反り返っているのか。

子供たちは、きっと困惑している。

連日報道されている教師いじめの加害教師の一人は、謝罪文の中であの行為を「可愛がっていた」と表現した。きっとそれこそが彼女の罪の線引きなのだ。人それぞれ異なる、罪悪感のライン。それが暴力行為であると認識するか否かは、各々の罪のボーダーラインを超えるか否かにかかっている。

そしてその個々人の倫理観自体を非難し矯正することは、恐らく難しい。彼らはそういう人間なのだ。みな違う脳を持ち、違う経験をし、それぞれの倫理観を築いてきた。その倫理観自体を頭ごなしに否定したところで、問題の解決にはならない。

だからこそ、罰が必要なのである。これはもはや、被害者と加害者のためだけでは無い。何よりも子供達のために、大人が罰を受ける姿を見せなければならないのだ。まさかカレーを禁止するだけで終わらせるつもりでは無いだろうな。

あれがいじめなどではなく刑事事件であると認識させ、罰を受ける行為であることを示さなければならない。然るべき罰を受けずに教師を続けるなんてことは決して許されないのである。

「いじめ」という軽やかで使い勝手の良い言葉が、子供達から「罪悪感」を遠ざけた。

私たちは反省しなければならない。そして、今後の学校の在り方についてじっくり議論しなければならない。それこそプラトン時代のアカデメイアのように、顔を突き合わせ、建前や謙遜などなしに、真正面から議論するべきだ。

「上級国民」という言葉がトレンド入りした事件も、被害者が何万人もの署名を集めてもなお加害者は何の罰も受けていない。このまま罪だけを残して逃げ切るつもりなのだろうか。命の重みがそれを奪った人の地位に左右されるなど全く意味が分からない。

困難を極めることではあるが、非常に曖昧で個人差のある「罪の意識」のボーダーラインを、然るべき「罰」という形で示していかなければならない。......のだが、果たしてこの「忖度」まみれの社会で罪と罰は正常に機能しているのだろうか。

私は、今こそ哲学を推したい。

文明の発展に気を取られあらゆる犯罪が蔓延している今、自分だけは助かろうとせかせか動かしている足を止めて脳を動かしてほしいのだ。

哲学は古い時代のものではない。人間が生きている限り、心がある限り、存続しなければならない学問なのである。そしてそれは、未来の社会を変える一番強い力となる。

考えることを続けてほしい。答えなど出なくても良い。間違うことなど恐れる必要は無い。人と違って当たり前で、そこに意味があるのだ。

「人はみな自分と異なる価値観を持っている」と理解することが何より肝心なのだ。(実際のところ、多様な考え方を更に突き詰めて、誰もが納得のいく答えに辿り着くのが哲学のゴールなのだが、そこまでのレベルは今は求めないでおこう)

今私がこうして綴っている長文も、誰かにとってはくだらない戯言に過ぎない。浅い知識で偉そうに...と思う人もいるかもしれない。だがむしろそうやって何かしらの感想を持ってもらえるなら本望だ。脳を動かそう。自分の哲学と向き合おう。ひとまず今日は罪と罰について、じっくり考えてみてほしい。自分の中の罪悪感を見つめてみてほしい。

私はどんな人間だろう。あなたはどんな人間?

正解も優劣もないあなた自身の哲学こそが、今のあなたを作っている。



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