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一億総評論家時代をどう生きるか

昨日の記事で「彼方のアストラ」酷評レビュー事件について軽く触れたが、実はその星1レビューをきっかけにネット上ではなかなかの議論に発展し、最終的に作者自身がTwitterで言及するまでの騒ぎになっていた。

事の発端を知りたい人は、このまとめ記事を読むのが手っ取り早いだろう。

一つのツイートを皮切りに、あらゆる意見が飛び交った。SFというざっくりとしたジャンルに対し、それぞれの人がそれぞれの考えを発信したのだ。そして最終的に、作者がツイートでレビュー騒動について言及するまでの事態となってしまう。

それがこの投稿だ。

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「口調の悪さはあれど評論は自由であるべき」

「正しさの視点が違う」

限られた文字数の中で、適切な言葉を用いて伝える能力は、さすがである。

私も作者・篠原さんのこのツイートがきっかけで、今回「一億総評論家時代」というテーマの記事を書こうと思い至った。

以前書いた記事「見えなくても確かにそこにいる誰か」でも触れた、SNS時代の問題点。それはやはり、顔の見えない相手に対する配慮が欠けているということだと思う。

ある出来事や作品に対し、皆が別々の感想を抱くのは当然のことだ。篠原さんの仰る通り、「正しさの視点」は人それぞれ違うし、「評論は自由であるべき」だとも思う。人の数だけ捉え方や意見があって当然だ。それを自由に発言できる権利も保障されて然るべきである

しかし、やたらと攻撃的な口調で、作り手やそれを愛する人までも侮辱するような投稿は、私はあまり好きではない。

会ったこともない、言葉を交わしたこともない相手のツイートに、「お前がおかしいんだろ」だとか、「ちゃんと調べてから発言しろよ」といったキツイ言葉を容赦なく投げつける人がいる。それも、何十人、何百人といるのだ。

知識の誤りを指摘する人は、○○警察と揶揄されたりもする。(例:着物の着付けの間違いを指摘する人を、着物警察と呼んだりする)

Twitterのようなツールでは、一般人も専門家も入り乱れて意見交換が可能となった。そこには知識だけでなく、個人の解釈の違いや感情も混じるため、議論は迷走しやがて批判のし合いに発展する。

先ほどの着物警察の例で言うと、着物の着方が間違っている漫画の画像を載せて「これは正しい着方ではない」と一人が指摘する。するとそのツイートに対して「着物なんて江戸時代にはもっと自由に着てた」「私の持ってる着付けの本ではこの着方でも正しい」「着付けなんて着物業界が考えただけだろ」...などなど、あらゆるツイートが飛び交い始める。

もちろんこれはTwitterに限ったことでは無い。

専門的な知識を有する人は世の中に多くいて、持論を展開する機会がインターネットの普及によって爆発的に増えた。それこそ専門家でなくても、ほとんどの人が高等教育を受けて歴史や科学などの基礎知識を身に付けているし、本やネットで調べれば大抵のことは把握できる。その結果、個人の調べ方や学び方の差によって知識も解釈もズレが生じ、そこに感情も伴って、一つの事柄に何百何千もの評論家が生まれる

そんな中、自分の認識と違うことがあると、(それが過剰演出されたフィクションであったとしても)批判せずにはいられなくなってしまう人が出てくる。議論の過剰な炎上は、この一般評論家による指摘が火種となることが多い。そこに、あらゆる人が同意や反論をし、無関係な人も巻き込みながら、炎は燃え広がる。

私はこの光景をTwitterで頻繁に見かけているし、実はかなりうんざりしている。

結論から言おう。みんな自分とは違う人間で、人の数だけ意見があることを理解し、相手を尊重してほしい。と同時に、他人から尊重されるための言葉選びに気を遣ってほしい

納得がいかないこと、どうしても好きになれないもの、不快に感じる表現。それらに出くわした時、批判的な意見を言いたくなる気持ちはよく分かる。私だって、星1をつけたくなるような映画を観たことくらいある。
誤解しないでほしいのだが、私は否定的な意見を言ってはいけない、とは決して言ってない。レビューを参考に購入を控えたり、視聴をやめたりすることはよくある。高評価と低評価で二分しているレビューを見て、受け取り方の違いになるほどと思うこともある。
世界中の人々の見解に触れる機会が多いのは、むしろ人類が成長出来るチャンスだ。人の数だけ考え方があるということを、私達は以前より実感しやすくなっていると思う。今こそ、倫理観をアップデートする好機なのである。
日本の義務教育の「道徳」という授業で、本当に学ぶべきだったこと。それは、模範解答通りの意見を持つことではない。解答欄が一つだとしても、答えは人の数だけあるということだ。

評論家気取り、大いに結構。自分の得た知識を元に活発な議論が出来る場があるというのは、幸いである。肝心なのは、伝え方だ。とにかく、伝える技術が稚拙すぎる。

「はい、論破」なんて言葉が流行するようではダメなのだ。論破する快感を求めてしまったら、言葉のキャッチボールは成立しない。一方的で乱暴な送球は、必ずボールの飛んだ先にいる人を傷付ける。

自分の意見を聞いてほしいなら、尊重してほしいなら、まず相手の心を尊重すべきだ。この言葉を受け取った相手が、傷付くことはないだろうか。投げる前に自分の手元を確認してほしい。そのボールは棘だらけでないか。爆弾ではないか。鉄球ではないか。そして、見ず知らずの相手の後頭部目掛けて投げようとしていないだろうか。相手が受け取ってくれるような送球を心掛けているだろうか。

これは、SNSの話だけではない。実生活においても同様に言えることだ。

私達は、本当はもう気付いているはず。世の中にはあらゆる考えを持った人がいて、正しさは一つには定まらないのだということを。

一億総評論家時代を迎えた今こそ、コミュニケーションのあり方を見つめ直すチャンスだ。私達はきっともっと冷静で、賢くなれる。一時の感情に支配されて言葉の手榴弾を投げる時代は終わりにしよう

私はこのSNS社会に愛着がある。一つの居場所だと感じている。だからこそ、もっとみんなで楽しみたいのだ。明日も、いろんな人の思考を覗きたい。自分の思いつかなかった視点から世界を見たい。

誰もが傷付かない世界、なんてものは望んでいない。だってそんなのは絶対不可能だ。殺伐としたSNSに楽しみを感じている人は、私のこの投稿を不快に思うだろうし、犯罪者家族のSNSを攻撃することで心を保っている人もいるかもしれない。きっとそういう人からしたら、私の綺麗事こそが凶器になるだろう。

自分の言葉が、誰にどう届くか分からないという恐怖を常に感じている。だからこそ、言葉選びには慎重になるのだが。

この時代に物語(フィクション)を創作して発信している人は本当に素晴らしいと、つくづく思う。少しの粗でも叩かれるこの世の中に創作物を送り出すというのは、相当な勇気がいる。

創作に限った話ではない。noteにしたってそうだ。本を読んだ感想一つ取っても、世に送り出すというのは勇気がいる。自分と同じ感想を持つ人ばかりでは無いことを知っていて、それでも投稿しているのだ。場合によってはコメント欄が炎上する可能性だってある。

.....つまり、私もそういったリスクを負いながらこうしてせっせと記事を書いているわけか...。今更自覚してちょっと怖くなってきた。

だけどここまでダラダラと長文を書いたのだから、勇気を持って公開ボタンを押そう。この記事を読んでくれた人の数だけ、受け止め方がある。私はそれを理解できているし、覚悟もできた。最後にもう一度篠原さんの言葉を借りてまとめると、「正しさの視点」は人それぞれ違うし、「評論は自由であるべき」なのである。



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