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時間という概念に振り回される私達は

365日連続投稿を目標に始めたnoteだが、昨日うっかり寝落ちしてあっけなく連続が途切れてしまった。昨日の分、今日2つ記事を投稿すればチャラになるのでは?という浅はかな考えで、今これを書いている。

あーあやっちゃったなぁ。iPad買う口実にしたかったのになぁ。とぼやく頭の片隅で、私は別のことを考えていた。

そもそも、なぜ一年は365日なのか?一日を24時間で区切ったのは誰なのか? なぜ時間という概念は12、24、60という単位なのか?

そんな疑問から始まったのが、今回のテーマだ。


時間を知り季節を知ることが命を繋ぐ

時間について考えた時、思い浮かんだのはDr. Stoneという漫画だ。

この漫画では、ある日突然全ての人間が石化してしまう。石化が解除されたのは、3700年後。主人公の千空(せんくう)は、石化している間もずっと意識を飛ばさないよう数を数え続けていた。今が何年の何月何日で何時何分なのか、常に把握しながら3700年の時を過ごしたのだ。(少年漫画なので深く考えず受け入れてほしい)

なぜ彼はそこまでして暦を把握していなければならなかったのか。

それは、確実に生き残るためだ。

文明が滅んで何千年も経ってからいきなり冬に石化が解けたら、間違いなく死ぬだろう。石化解除が起こるなら春でなければならなかった。植物が芽生え、気候も暖かく、冬までに寒さ対策をする時間も充分に取れる。

そんなわけで、千空は見事狙い通り春に石化を解き、ゼロから科学文明を再建していくのである。

これは漫画の話だが、古代文明においても同様に暦は重要であった。

紀元前3000年の古代エジプト文明では、すでに時間の概念が誕生していたらしい。紀元前1500年頃に使われていた日時計も発掘されている。古代エジプトでは暦を知ることで、ナイル川の氾濫時期や農耕に適した時期を知った。生きるために、暦は欠かせない情報だった。


一日が24時間で一時間が60分なのはなぜか?

結論から言うと、地球の自転と公転、それによる太陽・星の動き、月の満ち欠け。それらを基準に区切りを付けた結果が、今の暦の概念、時間の概念に繋がっている。

要するに、地球が一回転したら一日。それを朝と晩で2分割し、更に12等分した長さが一時間だ。

古代エジプト(更にはそれ以前の古代バビロニア)においては、12、60、360という数字が物事を分割する際に有用な数字であった。

円周360度を6等分すると、円の半径を一辺の長さとする正三角形が出来る。それを更に二等分すれば、12等分が完成だ。

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12というのは、2・3・4・6等分を可能にする非常に便利な数字である。これが10だった場合、2等分か5等分しかできないことになることからも、その有用性は理解してもらえるだろう。

これが60等分となると、5分割、10分割が可能になり、ますます利便性が向上する。(60は1〜100の中で約数が最も多い)

古代文明において農地や狩猟品の分割に役立っていた数字が、そのまま時間を区切る単位として用いられることになったのはごく自然のことのように感じるし、納得がいく。

「なんで一時間は60分なんだよ。1メートルは100cmなのに」と憤慨した幼少期もあったが、時計が円形であることを鑑みれば、12や60という数字の方がよっぽどしっくりくるのである。


私達を取り巻く“時間”

さて、何やら想定以上に堅い話になってしまったが、ここからは古代ではなく現代の話をしようと思う。

大人になるにつれ、一日が24時間じゃ足りないと思うことが増えた。

仕事をして、家事をして、育児をして、やっと一息ついた時にはもう一日が終わろうとしている。自分の趣味の時間も欲しいが、それよりも睡眠時間を確保しないと明日の朝がしんどい。あぁ、一日30時間とかにならないかなぁ...

ならない

地球がこの速度で自転して公転している限り、一日の長さも一年の長さも変わらない。

もはや私達は紀元前に定められた時間の概念を覆すことは出来ない。全ては自然の摂理なのだ。ビッグバンで宇宙が誕生して奇跡的に地球が生まれて自転して太陽の周りを回って今の周期に落ち着いた時から、もう決まっていることなのだ。受け入れよう。

カップラーメンは3分待たないといけないし、田舎では一時間に一本のバスを待たないと行けない。保育園に行く時間なのに息子は「まだ遊ぶの!」と泣き喚くし、データのダウンロードは99%達成したところでなぜかピタリと動きを止める。

早く、早く、時間がないのに。

私達は自分を急かし、誰かを急かし、何かに急かされ、時計の針と追いかけっこをしている。

電車が定刻通り到着しないと謝罪のアナウンスが入るし、消費期限を過ぎた食品は容赦なく廃棄される。

分刻み、秒刻みで追い立てられる世の中は、なんだか殺伐としている。

なんとか、もう少し寛容になれないものだろうか。時間にばかり気を取られて、心のゆとりを失っていないだろうか。

時間という概念は、概念でしかない。数字はそこに置かれた指標でしかない。地球は勝手にくるくる回っているが、一回転する間に私達はただ寝ているだけでもいい。

今日は何も出来なかった。一日を無駄にした。もっと時間があればあれもこれも出来たのに...

そんな風に思ってしまう時こそ、立ち止まって休んでみるといいのかもしれない。

そんなに焦らなくたって大丈夫。動けなかった自分を責めて、明日こそやらなきゃと追い立てる。そんな日々が続く方が私はしんどい。

何一つ手付かずのやることリストは一旦置いておいて、時間という概念の起源について考えてみると、そのスケールの大きさに細かいことはどうでも良くなってしまう。私の場合はいつもそうだ。宇宙に想いを馳せると、大抵のことは些細なことになる。


だから、そう。つまり、noteを毎日更新するという区切りを、一日一記事と捉えるか、一年で365記事と捉えるかは、私次第だということ。

こんだけ長々と時間について語っておいて着地点がそこかい!というツッコミは重々承知している。が、元々そういった事情がきっかけで生まれた記事なのだ。

昨日まで、私はどこか自分を追い立てながら文章を書いていた。自分で課した数字の制約が、自分をつまらなく縛り付けていたのだ。

今後は、地球が太陽の周りを一周し終えるまでの365日を楽しみながら、私ものんびりnote生活を楽しむとしよう。


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