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「人種差別」を超えたもの~Netflix「ボクらを見る目」を観て~

エンターテインメント作品を観るとき、そこにある「真実性」を感じずにはいられない。「よーい、アクション!」とカメラを回され、演者たちが台本に沿った演技をし、「カット!」という声と同時にカメラは止まり、その世界はなくなる。そうわかっているはずなのに。それなのに、その中に含まれた「真実性」に入り込み、胸が苦しくなる。

私は時折、シリアスなテーマを扱った作品を観ると、その世界観に溺れそうになり、「いや、これは作られたものだから。監督がいて、演者がいて、カメラが回っているんだから」と自分に言い聞かせたくなってしまう。真正面から向き合うと、押しつぶされそうになるのだ。

今、Netflixで配信されている「When They See Us(邦題:ボクらを見る目)」というドラマを観た。アメリカを中心に、絶大な視聴数を誇り大きな話題になっているらしい。全4話のドラマ作品。実話をもとにしたものだ、とは知っていたけれど、「全4話」という海外ドラマにしては短く、完結したものだということだけで、なんとなく「ちゃんと見終えることができるだろう」という軽い気持ちで観始めた。率直な感想としては、あまりに溺れて苦しくて、まるで全12話を3シーズンくらい観た気分だった。それくらいの覚悟が必要なくらい、重い作品だ、ということだ。それでも、観てよかった、と思う。

1989年にNYのセントラルパークで実際に起こった事件「セントラルパーク・ジョガー事件(セントラルパーク・ファイブ)」をもとに作られた作品。白人の女性がジョギング中に何者かに強姦され瀕死の状態で発見された。当時14歳から16歳の黒人やヒスパニックの少年が捜査線上にあがり、無実の中、強烈な取り調べを受け、自白をさせられる。結果、5人の少年が有罪判決を受け、4人は少年刑務所、16歳の少年1人は刑務所で、長年にわたり実刑をうけることになる。その後、別事件で服役中の男が、自分が真犯人であると自白したことで、5人の無実が明らかになり、釈放。5人は市を相手に裁判を起こし、賠償金を受け取ることになる。この裁判は「勝った」ものでも、賠償金を「勝ち取った」「獲得した」ものでもなく、当然のものだと思う。そんなもので、過去は消えない。

1話では事件及び取り調べの経緯、2話では5人を巡る裁判、3話では有罪判決を受け少年刑務所で過ごした4人の様子とその後、4話では、唯一成人として扱われ刑務所で凄惨な日々を過ごした1人の様子と、5人の無罪が明らかになるまでを描いている。どこを切り取っても、しんどいものだった。

5人は、「白人の女性」が襲われた事件の捜査線上に挙がった「黒人・ヒスパニックの少年」として、不当な取り調べを受ける。もちろん5人とも無実でその女性の事件のことすら知らない。しかも、14歳から16歳の少年。わけがわからないまま取り調べで自白を強要され、「僕(刑事)の望むことを言えば、家に帰してあげるから」という文句で、5人は騙される。担当検察官は、白人の女性。「黒人・ヒスパニックの乱暴な少年たちが、集団で白人女性を襲った」というストーリーを作り上げた。検察官は、自分の出世のため、そして女性に対する犯罪の卑劣さを世間にアピールするために、5人の少年を利用した。私はこのドラマをみて、そう読み解いた。

大きく捉えれば「人種差別」を描いた作品なんだろうけれど、もっと色々な側面で受け止めることも出来る。不当な取り調べ、自白強要、法曹界の出世競争や醜いマウンティング。そして何より私が気になったのは、唯一成人として刑務所で服役したコーリーの、刑務所での惨い日々、そしてその中で変化していったコーリーの心理だった。

刑務所では、誰よりも若いコーリーは常にいじめの対象にあった。ずっと年上の男たちに、殴る蹴るの暴行をされ、一時は瀕死の状態にまで陥った。それを看守は見て見ぬふりをしていた。時には、加担するようなことまでした。刑務所には、法律はないのか。服役中の人間には、人権はないのか。閉鎖的な空間で作られる社会の惨さに、大きな疑問を抱いた。

何度も暴行され、看守含め味方がいない独房で、罪のないはずの青年(そう、街に居たって、刑務所に居たって、少年から青年になるのだ)は、数々の幻聴や幻覚に苛まれる。暴行から逃げるために別の刑務所に移ると、そこでは更に凄惨な暴行に晒される。服役中に、最愛の兄が死去する。唯一の親族である母親は、貧困に苦しみ、遠方に位置する刑務所には段々と足を運べなくなる。

仮釈放のための面談の度、コーリーは自分の犯していない「罪」を認めることはしなかった。「罪を認め、責任を負う」ということを明言しなければ、仮釈放はさせてもらえない。それを知っていて、コーリーは、最後まで「罪」を認めなかった。ついには、仮釈放の面談を拒否するようになった。絶対に「罪」を認めない、という意思の元で。

きっと、自分なりの正義を突き通した彼はとても強い人間であり、その正義が最終的に勝利したのだ。それは美談だけれど、それを美談として捉えるには、あまりにも悩ましいところが多すぎた。

私だったら、と考える。仮釈放の面談で「罪」を認めたら、この惨い場所から離れることができるかもしれない。あの状況で、「罪」を認めない、という断固とした態度をとれる自信はまったくない。最終的に無実を主張する場合でも、「罪」を認めて釈放されてから、冤罪を訴えて再審を求めることもできたかもしれない。それで判決が覆される可能性が低いことを承知でも、それでも、「早く刑務所から出る」ということに重きを置かなかったのか、と。刑務所の中で過ごすコーリーの、心理的な変化に強く興味をもつ。何もかも失って、それでも守りたいものって何なのか。極限に立たされた人間が持っていたいと思う「尊厳」って、何なのか。そこまで考えるから、味わい深いのだと思う。それが、この作品の奥行だとおもった。
もちろん、少年刑務所に入った4人も辛い経験をしている。しかし、16歳という年齢故に成人刑務所に入ったコーリーの日々の凄惨さは異常だった。それくらい差をつけて、集中的に脚本や演出に落とし込んだ背景は何なのか。たぶん、ただの美談じゃないところに目を向けさせたかったんだと思う。

15歳と16歳の差は何なのか。コーリーに暴行する服役中の男たちは、全員と言っていいほど皆、黒人だったのは、何故なのか。刑務所の中で「少年」から「青年」に成長するということは、どういうことなのか。

もちろん人種差別の残酷さや冤罪事件の惨さを受け止めるのだけれど、それ以外にも様々な側面で心に留まるものが多かった。

エンディングで、主人公として描かれた5人の、本人の顔が映される。映画で描かれたことを実際に経験し、今もアメリカで生きて、暮らしている、5人の顔。なんだか彼らの表情に、人間を感じた。リアリティを感じた。人間のどこに、その「強さ」があるのか。強要されて自白する「弱さ」(実際は、弱いから自白するのではないけれど、敢えて。)と、惨い刑務所生活を送りながらも仮釈放の面談で無実を言い通す「強さ」の混在。人種を超えた、「人間」についても語られるべき作品だと思った。

この作品の邦題「ボクらを見る目」には、少し違和感がある。「ボクら」の部分に。きっと、5人の少年性にフォーカスして「ボクら」としたのかと推測するのだけれど、5人の少年は、刑務所の中で成長し、大人になっている。「ボク」ではなく「僕」でもなく「私」になっている。その間もずっと彼らは「見られて」いた。いや、無罪が認められて出所するときも、その後の人生も、ずっと、「見られて」いる。何があっても、どこにいても、人は大きくなる。育つ。成長する。もしかしたら、自白を強要され有罪判決になった「あの時」から彼らの人生の針が止まった、ということを「ボクら」という少年らしさを残した言葉で表したかったのか。原題の「Us」という大きな言葉を、どう捉えるのか。

もう全てネタバレ含めストーリーを書いてしまったと思われるだろうけれど、こんな文章では収まらない衝撃と、動かされる感情がしっかりとあるはずだから、是非観てほしいです。Netflixオリジナル作品なので、今はNetflixでしか観られませんが、是非。

Sae

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