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働かなくなってわかった、「働く」ということ

正直な気持ちをお話しますね。ちょっと長くなっちゃったけど。

なんかな、最近「実感」というものを得にくくなってきてるって感じることが多い。

めちゃくちゃはっきり言うと、「働いていた時の感覚」が薄れてきた感じがある。

休職して8ヶ月以上が経って。やっぱり最初の半年くらいは、出来ないことも今よりずっと多かったし徐々に体調が回復していった感じがあったから、あんまり考えることもなかったし、考えずとも「つい最近まで働いていた」感覚があった。会社の空気や、感覚、人間関係、いろいろなものの感覚が、思い出そうとすれば昨日のことのように感じられていて。

今もまぁ苦手なことはあるけれど徐々に克服しつつあって、完全ではないけれど行動範囲も広がって、できることも増えて。本を読んだり、映画や舞台を観たり、興味のある分野のイベントやシンポジウムみたいなものに顔を出してみたり、働いていた頃には全く出来なかったようなとても充実したインプット生活を出来ているのだけど、それが「血となり肉となっている」という感覚が、とっても薄い。

そういうインプットはもちろん大切で、今はできる範囲で自分の知見を増やして、世の中の仕組みを知って、、、っていう、ひとまわり大きい人間になるための準備期間なんだなって思ってはいるのだけど、わたしの感情はそう単純でもなかったみたいだ。身をもって経験することには、大きな価値がある。


働かなくなってわかった、「働く」ということ。


それは、労働力を提供して、その見返りとしてお金をもらう、というシンプルなことではなくて、他人との関わりが大きな部分を占めているんだということ。そしてそれが、「生きている」という実感や人生の充足感につながっているんだということ。

働いていると、いっぱい思い通りにいかないことがある。自分の言いたいことが思ったように相手に伝わらないこと。自分ではどうしようもできないレベルの問題にぶつかること。気の合わない同僚と働くこと。人が怒ったり怒られたりすること。仕事が出来る出来ないとかで、人をジャッジする空気。自分の意見をいうのが怖い、と思う感覚。部署によって異なる雰囲気。お弁当を持ってきている人とそうでない人。朝が早い人とそうでない人。しょうもない仕事ばっかりでうんざり、と思う感じ。飲み会ばっかりしている若手。会社の近くに新しいお弁当屋さんがオープンして話題になったりすること。朝礼で何喋ろうかな、と考える前日の夜。隣の席の同僚が風邪をひいてしまって、翌々日に自分まで喉が痛くなってきた時の嫌な予感。

どうでもいいことも大事なこともばーーーーって書いたけれど、でもどれも、他人との関わりの中で生まれていることだった。

そんなのどうでもいいじゃん、って思うことばかりだと思う。でもそれも、とっても大きなことなの。本当に。他人との関わりや、それに伴って自分が「変化する」「影響を受けている」感覚って、実はめちゃくちゃでかい。今の私には、それが「ない」と感じる。いや、「ない」じゃなくて、「足りない」。

他人と関わることって、基本的にはストレスが付きまとう。どんなに気の合う人が相手でも、「一人でいる」「一人でやる」っていうこととは、全くもって別のことだ。そう気づいたのは、私が「一人」になったから。休職する前は、そんなこと一ミリも気づかなかった。

「働いている」ということに関して、多くの人は、その給料などの待遇であったり、仕事内容が自分に合ってるかどうかとか、やりがいについて、考えを巡らすと思う。それらはもちろん重要なことで、大きな要素ではあるけれど、それだけで完成しないのが「働く」ということな気がする。給料とか仕事内容とかでは語れない、その周辺環境が、人にとっては知らず知らずのうちに大きな「経験」になり、その経験が、その人をその人たらしめていたりする。

休職して、少し元気になり始めた頃から、「働く」ということにとても興味を持つようになった。それは、自分にとって「働く」という経験が、とても極端な経験になってしまったからというのが大きいのかもしれない。

私はずっと「働く」ことに熱中していたし、でも「働く」ことに大きな違和感もあった。とても必要だけど、とても邪魔なもの。自分の自由や感性を奪うものでもあった。自分と「働く」ということの距離感を、うまく掴めなかった。これはもちろん、いつの時代でもどんな環境でもそう、ということではないのだろうと思っている。(前提として、自分の本質をしっかりと理解していなかったというのも大きいのだけれど)今の雇用制度であったり、社会の雰囲気に耐えかねて、自分が適応できなかったのだと思う。

だからこそ、「働く」ということに興味を持った。「働く」ということは、「生きる」ことと同義だとも思った。人間が気持ちよく健やかに生きていく上で、労働は必ず必要なものであり、でもそれを邪魔するのも労働であると思ったから。こんなに奥深いテーマはないと思った。

いろいろな雇用システムに関することやデータを調べたり、学術書を読んだりして、自分の知らないことが多く勉強になった一方で、「なに、他人事みたいに語ってるんだろ」と思うことも多かった。学者になにがわかるんだ、と。そんな数字でなにがわかるんだ、そんな単純じゃないんだぞ、って。

でも、そう思いながら読んでいて、ふと、自分に「働く」という感覚的なものが薄れていることに気づいた。あぁ、もしかしたら私にとっても「働く」ということが他人事になってしまったのかもしれない、と。

なぜだか私にとってそれはすごく悲しいことだった。悲しいというか、ものすごく寂しかった。一番近づきたい存在から、なぜか遠ざかってしまったような。永遠に叶わないとわかっている人を、どんどん好きになってしまっているような。そんな感覚。

他者と働きたい。関わりたい。少しの違和感や、少しの負荷を、心地よく感じていたい。

勉強したいことはまだまだあるし、今はまだ難しいかもしれないけれど、次に「他者と働く」ということを、私は心から待ち遠しく思っている。


なぜか今私はこれを書きながら涙が出てきていて。
どうしてだろうと考えると、ここ最近抱いていたもやもやをやっと言語化できたことに新鮮な驚きと感動を覚えているからだと思う。それと同時に、いつもいつも私にとっては抱えきれないほどの感情を言語化するきっかけを作ってくれるこの場に、改めて感謝する気持ちが湧いた。

正直いうと、少し前から、このnoteの毎日更新を一旦お休みしようかと考える時があった。230日以上続けてきて、中途半端になっちゃうな、せっかく読んでくれる人も増えてきたのにな、と思いながらも、一旦、自分の血や肉を増量させてから書いたほうがいいのではないか、とずっと考えていた。

でも、なんだか今日、これを書いていて思ったけれど、もう少し続けてみようかなと思う。自分のためになるな、と思ったから。これも「他者との関わり」に似ているかもしれないけれど、少しの負荷が、思いがけない自分の感情を引き出してくれるときがあるような気がした。

負荷が「負担」になったら良くない。けれど、少しの負荷は大事だ。人生のスパイス。

私は原稿を溜めておくタイプではないので、毎日こうしてパソコンに向かうわけだけれど、「何か良い記事が書けるだろうか」と不安に思う日が続いていた。思いながらも、まぁ書いた。それらの記事に想いやこだわりがないわけじゃない。自信をもってお届けした。そうやって不安を感じながらも書く日々は、時々驚くほどに自分の感情を引き出してくれる。

「書く」ということが目の前に存在してくれて、真っ白なPCの画面が目の前にある時にだけ開く、心の扉のようなものがある気がする。それは、その時の自分の気持ちに正直に向き合った人にしか開かない扉なのかもしれない。そう思うから、誠実に書こうと思ったし、今日真っ白な画面を開いた時になにを書こうか困惑したし正直どうしようかと思ったけれど、書いてよかった、と思った。

こんな調子なので、日々、つまらないことも書くでしょう、と思う。でも、私は時々人を笑わせたくて、時々啓蒙活動がしたくて、時々伝えたいことがあって、時々役立つ情報をお伝えしたくって、でも、きっと時々こうして、自己開示のために書くのだと思う。

それでも、読んでくれますか?読んでくれたら、嬉しいです。「読まねーよ!」と言われてもきっと書くけど。笑

一人の人間の毎日のことを、どうぞ覗いていってくださいね。嘘は書かないよ。
とても勝手な解釈ながら、私にとってはここはもはやただの「ブログツール」ではなくホームであり、読んでくださる皆さんは「フォロワー」ではなく、深い友人なので。

Sae

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