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新品のショートブーツと、100円のお団子

此の期に及んで、未だ「効率性」を重視しているみたいだ、私は。

この秋冬のために買ったショートブーツ。
いつも、新しい靴を買うと、履きやすくかつ長持ちさせるために、靴の修理屋さんに行って靴底に滑り止めをつけてもらうようにしている。新品の靴でも格段に履きやすくなるし、靴そのものが綺麗に保てるので、こだわりでもあるのだ。

このブーツを、いつ修理屋さんに持って行こうかと、ぼんやりと考えていた。

都内といえどなかなか栄えていない場所に住んでいるので、家の近くに「靴の修理屋さん」がない。電車で数駅行ったところが、最寄りなくらいだ。(都内なのに緑が多く、栄え過ぎていないところは、我が家の好きなところでもある)

あいも変わらずせっかちで段取り好きな私は、「靴の修理屋さん」に行くためだけに電車に乗って出かけるのが、何だか癪だった。何か別の用事がある日にかぶせて行ける日はないだろうか、と手帳とにらめっこしたけれど、このブーツを「デビュー」させたいと目論んでいる日までに都合が合いそうなタイミングが見当たらない。

そんな些細なことを考えていると、母が『これ、いつ履くの?』と聞いてきた。
母はいつも、新品のものを翌日には着て出かけていくタイプなので、そんな私を疑問に思うらしい。

「いやーまだ修理屋さん行けてないからさ」

『えー、行けばいいじゃん』

「いや、用事がないからさぁ。○○に行く用事。」

『・・・え?あるじゃん、「靴を修理しに行く」っていう用事が』


そうだった。これも、れっきとした「用事」だった。

用事っていうのは、何がそれを「用事」たらしめているのだろう。
時々、友人の誘いを断ったり、少し先にお暇する時に「用事があるから」という言葉を使うけれど、その「用事」って、友人との時間をなくす或いは短くするほどのものなのかと、自信を持てなく思う時がある。

「歯が痛くて歯医者に行きたい」という用事なら納得されて、「どうしても今日発売のルージュを買いたくて、百貨店に行きたいから」は納得されないのだろうか。「体の調子を整えるために、ヨガに行きたいんだよね」は、納得してもらえるのだろうか。こういう時に「そんなのいつだって行けるじゃん」と言われるか、「そりゃああなたにとって大事な用事よね、気兼ねなく行ってきて」と言われるかどうかは、価値観の大きな擦り合わせに匹敵する気がする。

少し話が逸れたけれど、私にとって「靴の修理屋さんに行く」ということが立派な用事として、認定できていなかったらしい。何かもっと大事な用事(例えば、友人と食事に行くとか、病院に行くとか、映画を観にいくとか)のついでに行くもの、というイメージだった。

思えば、バリバリに働いていた頃の癖だったのかもしれない。
当時毎日履いていたピンヒールは、すぐにヒール部分がボロボロになってしまうので、よく会社の近くの修理屋さんに行っていた。修理屋さんに行くのは決まって休日ではなくて、平日の昼休み。お昼ご飯を買うために外出した際に修理に出して、その日の終業後に取りに行く、というパターン。そうすれば、翌日からそのハイヒールは、お手入れされた「戦闘靴」としてHPを復活させ、1軍に返り咲くことができる。こういう「効率性」ばかりを考慮して、「戦闘」を続けてきた。

靴を直すのも、立派な用事だよなぁ。そうだよなぁ。
当たり前のことなのに目からウロコを落とした私は、「用も無く」街に出ることにした。新品のブーツを持って、家から数駅離れた、ある下町まで。

駅に到着した私は、真っ直ぐに靴の修理屋さんに向かう。気の良いお兄さんが、対応してくれた。お兄さん、とか言ったけれど、私より年下だったりするかも。

1時間後に出来上がる、と言われたけれど、2時間後に取りに行きます、と伝えた。

せっかくだから、この下町を思いっきり楽しもうじゃないか、と思った。

とても天気が良かった。澄んだ水色の空に、薄い膜のような白い雲がところどころにかかり、空に隙間を作っているように見えた。

てくてくと当てもなく街を歩く。家で朝ごはんは食べたけれど、まだお腹に何か入りそうだ。

美味しくて涼やかな空気を鼻から肺いっぱいに含んで、吐いて、を繰り返すと、頭の中がスッキリしていくのがわかった。いつもの癖でスマホをポケットから取り出してしまったけれど、ツイッターを開いた瞬間、何だか面倒な世界だな、と思って反射的にスマホを閉じた。

お寺が見えた。参拝するつもりはなかったけれど、せっかくだから参拝することにした。お財布から、小銭を取り出す。最近はできるだけキャッシュレスで生活することにしているから、お財布を覗いて小銭をゴソゴソと取り出すなんて、新鮮だな、と思った。

合掌し、願い事を唱える。
あ!!もう一個お願いすれば良かったーーー。今思い出した。「素敵なパートナーと、出会えますように」。お寺で唱えられなかったから、今ここに書いちゃう。笑 実際にお願いしたことは、もちろん内緒。

お寺のそばの屋台で、お団子を売っているみたいだ。「みたいだ」とか書いたけれど、実は合掌している時から気づいていた。良い匂いには、とことん鋭い。

店番のおばあさんは、お弁当に夢中だった。どうやらお昼ご飯らしい。
「・・・お食事中すいませーん・・・1本、いただけますか?」
おばあさんはにっこり「良いのよ〜ふふふ」と恥ずかしそうにしながら、美味しそうなお団子を差し出してくれた。また財布の小銭をガサゴソしながら、100円を支払う。この美味しそうな1本がたったの100円っていうのは、「幸福度」でいうととてもコスパが良い気がするなぁ、とよくわからない評価軸をいきなり取り出しながら、もぐもぐと食べた。

気持ちのいい秋の空気を感じながら、ボケーッと壁に寄っかかってたべた。
お醤油の風味が、とても美味しかった。ベンチに座って俯いたままピクリとも動かないサラリーマンが目に入り、少し、気になった。営業で外回り中だろうか。それとも、会社に行きたくなくてここで休んでいるのだろうか。どちらにしろ、休憩するには素敵な場所を選んでいるね、と思った。ナイスチョイス。目の前はお寺だし、きっと大丈夫だよ。何が大丈夫なのか、わからないけど、多分、大丈夫。駅のホームや、ビル群の隙間よりは、ずっとかマシだ。

お団子を秒速でたいらげた私は、またぷらぷらと散歩をする。とにかく気持ちがいい。靴の受け取りまではまだしばらくある。喫茶店に入って、読書をすることにした。こんな時のために、本は持ってきていた。

来月の映画公開の前に読み直そう、と思って持ってきた「蜜蜂と遠雷」。

はじめに読んだときは、正直そこまで響かなかったのに、今読むと、面白くて面白くてたまらない。心も身体も、洗練された感性に浄化されていくような気すらしてくる。読書というのは、こちらのコンディションまで見抜くらしい。全部、合わせ鏡だ。

読書に没頭している間に、あっという間に靴の引き取りの時間がきた。
「用も無く」やってきたつもりだったのに、あれ、もう時間か、もっとこうして過ごしていたかったなぁ、と思った。なぜか、どんな用事をこなした日よりも、心と身体がリフレッシュされた気がした。

時には、当ても無く時を過ごすのも、ありかもしれない。
幸運にも、今は秋の始まりだ。この気持ちの良い季節を味わうのに、「用事」なんて作る必要ないんだよ、と誰かに囁かれた気がした。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。