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運動神経が悪い私の、青春のお話。

先日、友人と「自分がいかに運動神経が悪いか」という話で大盛り上がりした。

アメトーーク!で「運動神経悪い芸人」という言葉が生まれて久しいが、あれを観るたび、「これなら私も出れるな」「いやー、めっちゃわかる」という謎の感情が生まれる。運動神経が悪い私は、あれを笑いではなく、共感の気持ちで観ている。エピソードなら、いくらでもあるのだ。

どうやら私の見た目(単純な見た目のみならず、さっぱりした性格も合わさってのことらしいが)は、「とても運動が出来そうな子」という感じらしく、昔からそのギャップに悩まされてきた。

身長は160cm以上あってヒールも履いたりなんかするとまあまあスラっとしているし、ショートカットだし、服装はどちらかというとガーリー(ガーリーって死語?)ではなくさっぱりした感じ。運動できないのに、スポーツブランドの服はかっこよくて好き。で、性格もざっくりしている。よって、「運動できそうな子」「活発な子」というイメージを勝手に持たれるのだ。

余談だけれど、昔少し気になっていた男子から「俺、子どもは運動神経が良い子に育てたいから、運動できる女の子と結婚したいんだよね。ほら、遺伝って大事じゃん?」と言われ、勝手に失恋したこともある。向こうはきっと、私を「運動神経が良い」というイメージを持って言っていた。私は傷付いた。なんと残酷なことよ。よよよよ…。

そんなイメージはよそに、実際のところは、運動全般がめちゃくちゃ苦手だ。笑うくらい、出来ない。

まず、泳げない。(ちなみにスイミングスクールに通ったこともある。そして残念なことに、水着はとても似合う)
50メートル走は10秒超え。(先日サニブラウン選手の記録をニュースで見て、「あぁこの人は私の倍速で走ってるんだ」とぼんやり思った)
特に球技は一番苦手。動くボールをとらえることが出来ない。とくに、テニスやバドミントンといった、ラケットを使う競技は本当に困り果てる。だって、自分の手じゃないのに、ボールをとらえろというのだ。自分がラケットを掴んだときの、手とラケットの丸いところ(ボールを受け止めるところ)までの距離感がまったくわからない。空振りするか、ボールが飛ばないところにかするか、くらい。バドミントンなんて、柄が長すぎてほんと無理。ピクニックとかで楽しそうにバドミントンをしているカップルとかを見ると、デートそのものが楽しそうだなぁ、という感想の前に、「なんであんなにすんなりとラケットにボールが当たるのか」という気持ちになる。ラケットを使う競技で唯一出来るのが、卓球だ。「温泉バドミントン」じゃなくて、本当によかった。「温泉卓球」なら、出来る。

中学校に入学するとき、ずっと楽しみにしていた新生活にわくわくし、浮かれていた私は、そのカッコよさに惹かれバスケ部に入部することを夢見たのだけれど、母の「いやいや、無理に決まってるやろ。やめとき」という言葉で目が覚めて、入部しないことにした。正しい選択だった。まじで、無理に決まっている。小学校で散々みじめな思いをしたはずなのに、なぜ中学生になったら突然出来るようになると思うのか。浮かれた気持ちというのは、正常な判断能力を奪ってしまうらしい。(ちなみに私の母は、運動神経が良い。「運動神経が良い人との子どもなら運動神経が良くなる」と考えていた上述の男子に、人間はそんな単純なものではないと、言ってやりたい)

しかし実際は、ほんの少し、「自分に諦めていない」気持ちもあった。もしかしたら、一生懸命練習したら、もう少しくらいマシになるんじゃないだろうか。まだ自分にも、可能性が眠っているんじゃないだろうか。だって、バスケもテニスも、出来たほうがかっこいいじゃんか。。。。

そんな淡い気持ちを持ちながら、順調に文化部としての人生を歩みながら、高校生になった。高校の体育の授業では、選択制で、自分の選んだ競技を数か月やらせてもらえるときがあった。バスケ、バレー、テニス、などなど。その中で私は果敢にも、「テニス」を選んだ。あんなにも、苦手だと自覚しているテニスを。テニスが出来る女の子ってかわいいじゃないか。素敵じゃないか。テニスコートで汗を流しながらのデート、とかも、してみたいじゃないか。夢見る女子高生だった私は、自分の運動能力に少しの希望を残して、テニスを選んだ。なんたる強いメンタル。

まぁ、こんな無茶な選択が出来たのは、「女子校だったから」というのが大きい。自分に希望を残していた私でも、さすがに花の女子高生としては、男子の前で恥をかくのは嫌だ。女子校なら、恥をかいても、死なない。よっしゃ、やってみよう。そう思ったのだ。

自分で選んだものの、なかなかの地獄だった。(書きながら笑えてきた。どうしてこんなにしぶとく挑戦しているんだ自分は。笑)
まず、サーブが入らないのだ。・・・いや、「まず」という言葉を使ったことを訂正したい。「まず」どころか、私のテニスの授業は、この「サーブが入らない」という経験で終始した。ボールを上げる。ラケットを振る。シュッ。見事に空を切る音。サーブに苦労したことのない人にはわからないかもしれないが、運動神経が悪い人にとってのサーブと言うのはまず、「ラケットにボールを当てる」というところに第一難関がある。向こう側のコートに入らない、なんぞ、ハイレベルな悩みなのだ。

いつまでたっても出来るようにならないサーブ。泣きたくなる私。なぜテニスを選んだのだ。自分を恨む。しかしそこは、さすが女子校。みんながじわじわと、私を応援してくれるようになった。ちょっとラケットにボールがかすると、「おぉー!」「惜しい!」とか言ってくれる。みんな優しすぎんか。涙。

そんなこんなで迎えた「サーブのテスト」の日。10本打って、何本相手コートに入れられたか、というのを試されるテスト。
粘り強い練習の成果からか、なぜか5本くらいサーブが入った。超奇跡だった。そんなこと起こる?というレベルの奇跡。びっくりした。周りの女子たちはみんな、「おぉ!」と、ものすごく拍手をしてくれた。あの拍手は、いまでも覚えている。笑いと涙の混じった、中途半端な青春エピソードが出来上がった瞬間だった。スポーツが出来ないだけで「全国大会」も「試合」も「勝ち負け」にも縁がなかったけれど、これが私の、リアルな青春だった。

そんなこんなで完璧にスポーツを諦めきった私は、「スポーツができるイケてる女子高生たち」の応援に徹した。まじで夢見る女の子だった私は、手元にある少女漫画と、「男子が学校に存在しない」という現実とのギャップに苦しみ悩み叫んだ日々を過ごしていたので、「スポーツのできるかっこいい女子」を、誠に勝手ながら「イケてる男子高生」的な扱いをして、楽しんでいたのだ。誠に勝手ながら。あぁ、私も、スポーツのできるイケてる男子高校生に恋とかして、試合の応援とか、してみたかったなぁ。とかいう気持ちを、勝手に満たさせていただいていたのだ。

わが校は、私のような運動のできない女子を守るためなのか、単なる時間や場所の問題なのか、球技大会が全員参加制ではなかった。クラスの中で、種目ごとに得意な人を選出し、何にも選出されなかったひと(つまり私を含む何人か)は、ひたすら応援すればよいのだ。なんという親切な学校。応援なら、得意である。(漫画でたくさん読んだから)

球技大会を心底楽しみにし、バスケ部の躍動感に感動し、バレー部の身体をはったプレーに拍手をおくり、まさに(私の脳内では、イケメン男子高校生に送っているはずの)黄色い声援を送りまくった私は、「応援側」にいる人間として、はちゃめちゃに目立った。そしてその成果として、卒業文集のクラスのページにあった「彼女にしたい人ランキング」で見事1位を獲得した。これは私にとって、非常に名誉なことである。・・・よく考えると、「彼女にしたい人ランキング」とはなんなのか。(女子校あるある)

そんな甘酸っぱい青春時代を過ごし、運動神経は良くなるはずもなく、今を生きている。「運動が出来ない」という十字架は、一生背負っていくのだ。「運動出来そう」というギャップに悩みながらも、強く生きていくのだ。

そんな中、まさか現世で救いが訪れるとは思わなかった。時代というのは、有難いものである。運動神経が悪い人でも「何かスポーツとか、されているんですか?」という魔の質問に回答出来る日がくるとは。


「ヨガ、くらいですね」


ありがとう、ヨガ。ありがとう、ヨガブーム。
ヨガに助けられて、私はいま、生きています。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。