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「カテゴリー」がなんだ

今日は少し、凹んでいる。いや、「いま」凹んでいる、と言った方が正しいのかもしれない。
何故なら、2日続けて昼寝(というか、寝落ち)してしまったから。意に反して、やらなきゃいけないことややりたいことを全然満足にできていない。

今は治療中で、薬の副作用で眠くことがある。そんなことはずっと理解しているし、寝てしまっても、しょーがない!と半ば良い意味で諦めたつもりだったのに、またこうして、時には凹んでしまう。何度こんなことを繰り返してきたんだろうか。人間っていうのは弱い。「もう凹まない!」と言って、次の瞬間には凹む生き物だ。でも、今さっきまでソファで寝落ちしていた私を横目に母が作ってくれている夕飯を食べたら、きっと凹んだ気持ちが少しアガることもだいたいわかっている。そうやって、繰り返していく。

・・・・いま、ご飯を食べてきた。
録画していたテレビ番組で滝沢カレンさんが「過去のこととか、全然考えない。今日のことすら考えてない。明日のことばっかり考えちゃう。明日何着ようかなー!とか」と言っていて、面食らった。「今にフォーカスしよう」と思っている私の5億歩くらい先を行っている。勉強になるなぁ。

そんなこんなで、母の美味しいご飯を食べ、テレビを見てケタケタと笑ったら、少し元気になってきた。今日、今からでもやれることをやろう、と、今は思っている。こういうとき、人間って強いなーて思う。笑

ここ数日、「マイノリティ」とそれ以外の境目って何だろう、と考えている。そんな境目は存在しない、っていうのが今の私の答え。「マイノリティ」という括りを正しいとするならば、人間全員が「マイノリティ予備軍」だ、と言いたい。

「社会的マイノリティ」と簡単に言葉では言うけれど。「障がいを持っているひと」「病気のひと」「LGBTQ」「貧困」・・・・挙げだしたらキリがないこれらのカテゴリーたちは、いったい誰が作ったものなのかな、と。本当は、カテゴリーなんて、ないはずで。

元気ぴんぴんで生きている人は、それらのカテゴリーをそのまんま捉えがちだと思う。あたかも、「生まれながらにそうである人」を括ったかのように。自分が認識したそのカテゴリーに、自分が加わるかもしれないことを、想像していない。2,3年前の私がそうだったように。

その境目というのは、実はとても曖昧なものだ。いわゆる「キャリアウーマン」のように称されてバリバリ働いていた私は、2年間くらい誰にも病気を告白する勇気を持てずに過ごし、その後このように公表して療養することを決めた。この場合、私はいつ、上記のカテゴリーで言う「マイノリティ」になったのだろうか。

私の心の中では、2年前に病気を発症して、誰にも言えず孤独感を感じ始めたときから、既にマイノリティであり、よそ者だった。でもきっと、何も知らない周囲の人は、会社を休み始めて療養に入った瞬間に、私を「マイノリティ」のカテゴリーに属させたように思う。それは誰を非難しているわけでもなく、表層的に見えるものというのは、大概にそういうものだから。

そうして他者を「マイノリティ」かそうでないか、と無意識に脳内で振り分けながらも、自分がその「マイノリティ」になる可能性があることを、どれくらい皆は意識しているんだろうか、と、思う。

「社会的マイノリティ」と「そうでない人たち」がそれぞれ離れた島だと思っているのだとしたら、それは違う。その島は、実はくっついている、と思う。完全に、一つの島だ。

その簡単に括ったカテゴリーは、いつだって移動できてしまう、簡単なものだ。その境目に、鉄壁はない。
傍目にみれば元気でぴんぴんしている人が、次の瞬間、病気になるかもしれない。交通事故で障がいを負うかもしれない。貧困に陥るかもしれない。そんなきっかけは、いつも近くにゴロゴロと転がっている。

そしてきっと、自分がその「マイノリティ予備軍」だと認識するまではいかなくとも、うっすらとその危機感や不安感を覚えたりしている人も、中にはいるんじゃないかなぁ、と、思う。きっと、ギリギリで働いている人も、ギリギリで生活している人もいる。SOSや、声をあげていないだけで。

そんなことを考えていると、社会的マイノリティと呼ばれるものを、カテゴリーに分けることへの違和感を、どうしても感じてしまう。互いに互いを「自分とは別のもの」と思わずに生きていく社会を作るためには、どうすればいいんだろうか。そんなことを、ずっと考えている。

今をトキメク有名な人が書いたビジネス本を読んでいても、いわゆる「社会的マイノリティ」に特化した本やメディア等をみていても、それを読むひと・参加するひとの間に分厚い境目があることを、どうしても感じてしまう。それは、どっちの世界も、どっちの世界の人の気持ちも少しだけならわかる自分がいるからかもしれない。「昇りつめて輝きたい」と必死にビジネスにしがみつく自分と、病気によってそれが出来ない弱った自分も。

だからこそ、その境目というのは本当は存在しないのに、何らかの背景があって作られたカテゴリーであることを感じてしまう。そしてそのカテゴリーを、カテゴリーとして括ることをせずとも色んな課題をクリアする方法はないのかな、と考えたりする。

なんかすごい漠然とした話を書いてしまった。笑 うまく書けた気がしないので、1ミリでも伝わっていたらありがたい。
自分に何かできることがあるんじゃないか、と思って、実はずっとワクワクしている。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。