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沸騰するTwitter、弱火で煮込むnote

文章を書くことで得られることってたっくさんあると思うけれど、文章を「毎日」とか「継続的に」書くことで得られることは、別に存在しているような気がしている。

私は、毎日の出来事に対して何か感じることや考えることがあったとしても、それを言葉としてアウトプットするのに時間がかかるところがある。

例えば、何かのコンサートやイベントに行ったとして、帰り道に「楽しかった?」と聞かれたり、家に帰って家族から「どうだった?」「面白かった?」と聞かれても、うまく感想が出てこない。

それは、つまらないとか感想が無いとかっていうことではなくて、自分がどういう感想を抱いたのか、どういうところが面白かったのか、ということを言語化するのに、2日くらいかかってしまう。

時々「つまらなかったのかな」とか「何か嫌なことでもあったのかな」と思われるのだけど、全然そんなことはなく、ただ単に自分の中で咀嚼していて、「面白かった!あのね、こういうことがあってね、こういうところがとっても良くてね、、」と語れないだけだったりする。

そんなことに気づけたのも、SNSをやってから。そして、それらを使い分ける事を意識してから初めて、自分の中でしっくりきた感じがある。

最初は苦手だったけれど、Twitterはやっぱりリアルタイムであることが大事で、発信する方はもちろん、見る方としても、例えばライブの感想を2日後に呟かれてもつまらないなと思う。だから最近は、感じたものをすぐに言葉に表す(誰しもにわかってもらえる形で)という練習をするようにしている。どんなに簡単でもいいから。

で、それでもやっぱり自分の中の咀嚼はしきれていないから、改めてnoteに書く。制限もなく、リアルタイム性も求められないところで。

↑の記事は、全然関係ないように見えて、自分なりに2つの出来事を通じて感じたことの総括だったりする。

この段階では、出来事そのもの、例えばイベントやコンサートそのものの感想だけではなくて、それに対して「自分が」どう感じたのか、とか、「自分にとって」どんな影響があったのか、っていうことまで書ける。

「自分」と「出来事」を、しっかり繋げるところまで考えて、書けるところ。

それが、noteを毎日書いていてよかったなと思うところだなと思う。noteでは、毎日の「出来事」ではなく「自分」を急かされずに書けるから、充実感がある。これはただの出来事の記録ではなく、思考の記録。

いわゆる普通のイベントレポを一生懸命書いていた時期もあったけれど、あれは自分の記録ではないんだよね。その場にいれば、誰でも書けるものしか書けていなかった。

じゃあTwitterのワンクッション要らないんじゃないの、と思いがちだけど、そうでもない。一度リアルタイムで書こうとするからこそ、一旦のガス抜きができる。自分の中の抜け感を出せるというか。料理でいうと、一回沸騰させてから、落し蓋をして弱火でコトコト煮込む感じ。沸騰した時の一瞬の面白さがTwitterにはあるし、コトコト煮込んだ後の味わい深さが、noteにはある。

Twitterみたいな即時性も楽しみながら(みんなでワイワイ楽しめるところがとても好き!)、noteでの思考の記録も大切にしていたいなと思う。

Sae

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