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「自分で決めたことだから」の呪縛

「自分で決めること」って、とても大事だと思うようになった。いや、思えるようになった。

定期的に受けているカウンセリングで、自分のことをとても深く深く分析している。どんなに些細なことでも、そのとき自分はどう感じたのか、それはどうしてなのか、どうしたいと思ったのか・・・ひとつひとつの行動に、ものすごく深い心理が隠されていて、全く別の事柄だと思っていたことが実は深いところで繋がっている、なんていう発見がたくさんある。

私にとっての、その一番大きな発見が「自分で決めるということ」だった。

これまでの20数年間の人生でも、全て自分で決めていると思っていた。思い込んでいた。自分でやることは自分で決めて、自分でやり通して。それで一定の成果を得ていると思っていたし、一定の評価ももらったと思っていた。端から見ても、そうだったと思う。

けれど、その「自分で決める」という意思決定の中身が、混じりけのない「自分の意思」だけだったかと言ったら、そうじゃなかった。自分でもほとんど無意識のうちに「こうしたら上手くいくんだろうな」とか「こう言ったら喜んでもらえるんだろう」とか「この道を選んだら評価してもらえるんだろう」とか、そういう「他人の目」「世間の目」がものすごくでっかい存在として「私自身の意思」の中に入り込んでいて、いつの間にか「私自身の意思」だと思っているそれは、「私自身の意思」とは遥か遠くの、もはや全く別のものになってしまっていたような気がするのだ。

これまで「私が決めたこと」と思い込んでいた様々なことは、本当に私の意思に基づいたものだったのか。それを考える行為は、自分という人間を大きく振り返る壮大なものだったけれど、すごく大切な行為だった。全てを手に入れて満足な生活をしているはずなのに、何故か大きな虚無感に襲われる、その理由は、そこにあった。

「他人の人生」ではなく、「自分の人生」を生きる。他人に期待されているからでもなく、その方が世間的に好かれるから、でもなく、「自分がそうしたいから」という気持ちを、何よりも大切にすること。皆が求めるような良い子になりすぎても、誰もそれによって生じる虚無感を埋めてくれはしない。だから、誰よりも、自分を大事にする。

自分にとってそれに気付けて、初めて行動にうつせたのが、この休職だった。これまでだったら、「会社の人は、復帰してほしいと思っているんだろうなぁ」という考えが先立って、周囲の期待を勝手に自分の意思にすり替えていたように思う。それを振り払って、いや、休むんだ、休みたいんだ、と言い張れたことは、自分にとってものすごく勇気のいることで、でも宝石のような気持ちが表れた瞬間でもあった。これまで磨いてこなかった「自分の意思」の裸の姿が、初めて見えたような。そんな感覚だった。それはとても、美しかった。

そんなふうにして手に入れた「自分が決める」ということ。それは、今の自分、これからの自分にとってとても大きなテーマで、大事にしたいと思っていることでもあるけれど、それが生む少しの罠の存在にも、気付きつつある。

それは、「自分で決めたんだから」というもの。

いわゆる「自己責任論」というやつの一部だろうか。「自分が決めたことなんだから、がんばらなくちゃ」「自分で決めたんだから、我慢しなきゃ」「自分が決めたんだから、文句なんかいっちゃいけない」と、「自分で決めたんだから」という言葉が、自分を縛ってしまうこともある。

でも、「自分が決めたんだから」という言葉で、そのときの「苦しい」とか「さぼりたい」とか「わからない」とか、そういうリアルな自分の気持ちを無視していては、本末転倒になってしまう。自分を大切にしていることにはならない。

「自分で決めること」「自分の人生を生きること」は、「自分を大切にすること」「自分を認め、好きになること」と同義だと思う。自分が決めたことだって、辛いときも逃げたいときも面倒くさいときも絶対ある。だから、その気持ちも、無視しない。自分で自分を縛るようなことは、してはいけない。

紙一重のこの気持ちたちを、自分の中で両方抱き、認めること。
それを学べるのも、自分の足で歩いているからだ、と思う。
どうか「自分が決めたことなんだから」の呪縛に足を取られないように。と、自分にも、皆さんにも、勝手ながら思いを馳せます。

九州の方は雨がひどいようですね。どうか被害が大きくならないことを、祈っています。

Sae

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