見出し画像

女性の性が持つ「弱さ」について

先日、女性が働くことについての記事を書いたり、そのおかげで色んな人の意見を聞けたりして考えを広げたり深めたりしているところだったのだけど、どうしても自分の中でモヤモヤがとれない部分がずっとあった。やっと少しだけ言語化できそうな気がしてきたので、書いてみようと思う。

ずっともやもやしてきたのは、「女性は強い」と主張することについてだったと思う。女性は本当に、強いのだろうか。いや、「強い」と主張しているわけではないのかもしれない。ただ、「女性も男性と変わらないレベルの仕事がしたい」「女性も男性と同じような裁量を持ってやりがいを感じたい」「同じレベルのお給料が欲しい」というような願望が、ひいては「女性は、男性と同じように働ける」、そして「女性は(男性と比較する必要もなく)強い」というふうに解釈されているんじゃないか、という疑問を感じる。もちろん、解釈されているだけではなく、そう主張する女性たちも、どこかで違和感を感じながらも「女性は強い」という論じ方をしてしまっているんじゃないか、と。

思春期になり、自分が女性という性を持って生きているということを自覚し始めてから、男性という存在は必然的に、それなりの「脅威」として感じることは多くなった。わからないけれど、これはそれなりに多くの女性が感じてきたことだと思う。

一般的な女性にとっては、男性に力で勝つことはほとんど難しい。ティーン雑誌には「突然暴漢に襲われたらどうするか」という簡単な護身術の特集が組まれていたし、私はそれを真剣に読んだ。夜道は家の鍵をしっかり握りしめて走った。停車しているワゴン車の近くは歩いちゃいけない。終電間際の電車はとにかく治安が悪い。お腹が痛くて夜遅くの片田舎の無人駅に途中下車したとき、ホームには私と酔っぱらった男性1人しかいなくて、話しかけられた時「あ、終わった」と思った。早足で距離を取り、スマホを握りしめ110番をダイヤルできる準備をして次の電車を待った。一人暮らしの女性の部屋に男が侵入したというニュースをみたときから数日は、一人で眠るのが怖くなった。何度も部屋や窓の鍵を確認した。夜道を歩くときは5秒に1回は振り返る。これらの感情は、29歳の今も、ずっと変わらない。こういう、日常に常にまとわりつく恐怖感や不安感を、男性が理解するのはきっと難しいと思う。この社会に生きている人間の半分が、自分の力では勝てない相手である、という感覚。

それだけでなくて、社会人として働く中で、自分の「女性としての弱さ」を感じることもあった。重いものを運べないなんてのはよくある話。バイオリズムの中で、とにかくお腹がすいてしまうとき、眠くて眠くてたまらないとき、いつもは平気なのにちょっとしたことですぐに涙が出てしまうとき、腰が痛いとき、頻繁にトイレに駆け込まないといけないとき。挙げだしたらキリがないほど、たくさんの弱さを感じてきた。それらが、「がむしゃらに働かなければならない」と自分を鼓舞する気持ちと摩擦して、自分を消耗させてしまったりする。

でも、そういった、努力ではどうにもできない「弱さ」を自覚して、それでもなお、仕事にやりがいを求めたい、自分に出来ることは何でもしたい、裁量を持たせてもらいたい、という切実な願いを主張することは、させてもらえないことなのだろうか。男性と同じように物理的な「強さ」を持たなければ、そういった希望や要求を主張してはいけないんだろうか。自己実現や承認欲求を満たすことは、受け入れてもらえないんだろうか。

自分の弱さは自分が一番自覚しているからこそ、自分の権利を主張することが「弱さを克服すること(実際に克服できるわけがないから、弱さを隠すことになる)」を強要されることにつながるのではないだろうか、と思って、それが怖くて、思いっきり声を大にして自分の要望を主張できない人は多くいると思う。少なくとも、私はそうだった。

私は異性愛者なんだけれど、「好きな異性のタイプは?」と聞かれると、思わず「男らしい人」「男気のある人」と言ってしまう。これだけジェンダーの話をしたり勉強したりしている人が、いまどき「男らしい」という言葉を使うなんて時代錯誤甚だしい、と自分でも思う。でも、この「男らしい」という言葉には、自分が女性であることの「弱さ」を自覚しているが故の「守ってほしい」という強い願望が込められていたりする。世間の言う「男らしい」がどういうイメージなのかはよくわからなけれど、私の思う「男らしい」は、守ってくれるかどうか、が全てだ。

一人で歩くのが怖い夜道を2人で歩いてくれたら、どれだけ安心できるだろうか。重いものを持てない、高いところに手が届かないときに助けてもらえたら、どれだけの負担が減るだろうか。知らない業者の男性がエアコンの取り付け作業に来た時に、男性が一緒にいてくれたら、どれだけ安心できることか。最終的に自分の身は自分で守らなければいけないということはわかっている。それでも、そういう、あまりにも日常的に訪れる不安感や恐怖心を取り除いてくれるならば、こんなに幸せなことはないと思う。だから、女性である私を、守ってほしい、と強く思ってしまうのだ。どうしても。

もちろん、守ってくれる「ツール」として思っているわけではない。ツールならば、極端な話、SPを雇えばいいだけだから。そこには愛情が宿っていて、愛情故に「守りたい」「守ってほしい」という気持ちが生まれる。私も、目一杯の愛情をもって尊敬し、支える。どうでもいい人に「守って」とは、さすがに思わない。なんなら、その「どうでもいい人」はただの脅威になり得るかもしれないのだから。ただ、そもそも「守りたい」「守らなければ」という気持ちがない人とパートナーになれるか、といわれると、たぶん、無理だと思う。

こういう「守ってほしい」という話になるとまた厄介なのが、それを「支配」だと勘違いする人もいるかもしれないということ。相対的に、そして物理的に「弱い」生き物であることと、自立することを諦めることは違う。弱くたって、意思はある。願望もある。自立したい。それを「守ってあげるから、この中にいて」というふうに、円を描かれて、そこから出られなくされてしまうのは、とても怖い。一般的に恐怖に晒されるよりも、もっと怖いことかもしれない。「守ってもらっているから仕方ない」という感情が生まれてしまったりなんてしたら、もっともっと怖い。モラハラの領域になる。

女性という性を自覚して「守ってほしい」と思うことと、「自立したい」という願望は、両立できないのだろうか。私にはまだ、答えが見つからない。見つからない中で、書いている。答えが見つからないからこそ、「女性だって強いんだ」「男と同じように働けるんだ」「差別するな」と大声で言えないし、自分の主張の落としどころが、見つからない。

「男なみ」は無理なんだと思う。私には。自分を「男なみ」だと自覚している女性の方は、自分の性が持つ弱さを、どのように捉えているんだろうか。女性も男性と同じように働くべきだ、という主張に「うんうん」と思う男性の方は、こうした女性の弱さをどのように解釈しているのだろうか。これは私の中でも答えがなく、まだ混沌としているから、誰を批判したいのでも評価したいのでもなく、とても純粋に、色んな人の意見が聞きたいなと、とても思う。

まだまだ熟していない私の考えを読んでいただき、ありがとうございます。

Sae

この記事が参加している募集

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。